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サディズムの支配する世界

なんか前回のアップデートで書いたことが、頭の中で発酵して、いろんなことが分ってきました。
兄弟だけじゃない、私の生まれた家には残念ながら、サディズムだけしかなかったんだ。
家族間の関わり合いは、上から目線の強制と、マウントの取り合いだけ。
そうかぁ、私、サディズムに育てられて大人になったんだな。
もちろん、そんなの私だけじゃないし、ついこないだまでの三次元末期の社会では、ほとんどの人々をサディズムが飲み込んでた。
だから三角社会だったんだよねぇ、上の段から押し付けられるサディズムは歯を食いしばって受け入れるしかなくて、そこでたまったストレスは下段の人たちに向って吐き出せる構造になってた。
会社の後輩とか、コンビニの店員さんとか、子どもの学校の教職員とか…。
そしてそれでも解消しなかったストレスがサディズムへと変わり、最後に向かうのが、決して親に逆らうことのできない幼い子どもたちですよ。
つまり、三次元末期の少なからぬ家庭では、幼い子どもたちが家族全員ぶんのサディズムを一身に背負わなきゃならなかった。
そして私も例に漏れず、その中の一人だったってこと。
だって、どうやったって一人では生きて行けないんだもん、他に選択肢はないでしょ。
で、この構造に含まれる、どこにでもいるフツーの大人たちのメンタルは、闇市場からモノみたいに子どもたちを買ってたペドフィリアたちのメンタルとほっとんど同一って言っていい。
だって、無力な子どもたちがが苦しんでるのを見て溜飲を下げ、ストレスを解消してたわけですから。
それっくらい私たちの日常と、闇の世界はすぐ近くにあった。
それっくらい私の周囲にも、そして恐らく私自身の中にも、サディズムは浸透してた。
細胞膜を通して簡単に侵入できてしまうスパイク蛋白みたいに、私たちの心身を蝕んでた。

幼い私の日常には、完全に「安心」が枯渇してました。
だって常に誰かのサディズムをこの身に受け、一人でいるときには、いずれさらされることになるサディズムに怯えて過ごさなきゃいけなかったから。
安心できる時間なんて、持てるはずがなかった。
でもこれ、なにも末端の子どもたちだけに限った話じゃない。
グラデーションのどこに位置していても、三角社会の中にいれば、誰もが安心とは無縁だった。
「後輩に、自分の地位をさらわれたらどうしよう?」
「クライアントの機嫌をそこね、来期の仕事が取れなかったらどうしよう?」
ストレスとマイナス思考はセットだから、誰もが「持っているものを失うこと」を怯え、現状に執着しまくってた。
なのにわざわざ自分から「現状維持」をキープできなくなった場面を思い描き、恐怖で底を突きそうなエネルギーをなお垂れ流して。
そんな中で、安心なんてできるわけない。
ようやく休みの日が来てゆっくりしようと思っても、常時点きっぱなしのテレビからは、不安・恐怖が際限なく吐き出されるし。
大人たちからサディズムをムリヤリ押し付けられている子どもたちは、すぐ近くで火が付いたように泣いて、イライラを募らせる。
安寧は、どこにもない。
不安とストレスと、はけ口を探し求めるサディズムが渦巻くだけ。
それが、三次元だったってことですよ。
そのようなメンタルに、意図して追い込まれてた。
さすがにもう、肌感覚で感じてるでしょ?
そんな時代がいま、終わろうとしてるんです。
なのにどうして好き好んで、不安とストレスの中に留まろうとするんですか?

いや、こんなこといくら言っても、詮ないことは分ってるんです。
でも全体像を宇宙から見せられて、ちょっと言いたくなっちゃいました、スイマセン。
今日は、こんなところです。
もしも最後まで読んでくれた方がいたなら、ありがとうございました。

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