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劇団森 新入生へのブログバトン③

こんにちは。
劇団森での活動量に対して、新歓での活動量が少なすぎると反省している西見葵です。
そういうわけで三回目となるこのノートでは、劇団森、ひいては演劇に身を投じるってどんな事なんだろうってことを書いていこうと思います。


僕は大学から演劇を始めたので、演劇歴はまだ一年くらいしかないのですが、やっぱり演劇ってすごい経験だと思います。

自分とは違う人間を演じることは、まずは本来の自分とはどんなものなのか知ることであり、その次に自分が演じる役、つまりは他者はどんな考え方をして生きているのかを理解しようとするってことです。
ちょっと難しくなってしまいましたが、いわゆる人間観察みたいなものです。

ただ、観察したものを自分の上に乗っけて演じないといけない以上、眺めるだけではいけません。
それを自分の身に引きつけて、他者として生きないといけない。
これはとても刺激的な経験になります。

例えば僕はこの間の新歓公演「玉匣開けずありせばまたも会はましを~うらしま太郎かく語りき~」で普通に生きてたらそうはならないような考え方をする役をやったんですが、上に書いた通り、そんな役でも生き方や考え方を理解しなければなりません。

普通に生きてたらそうはならないような考え方をする役


演じるためにはそう考える理由がわかるぐらいにはキャラクターを知らないといけなかったし、どうして自分はキャラクターと考え方が違うのかをはっきりさせないといけませんでした。
また、こうやって自分のこと、キャラクターのことをじっくり考えたおかげで、自分の考え方をかなり言語化して整理できたし、世の中には全く自分とは違う考え方をする人がいることも知れました。

こういった演劇のための人間観察をするのに、劇団森はよい環境なんじゃないかと思います。
何といっても劇団森には人が多く、さらにみんながみんな豊かな個性を持っています。そしてその個性や考えを主張することを、ためらわなくてもいいような雰囲気があります。
自分を知り、他者を知るには他者が考えていることを示してくれないと始まらないですからね。
そして自他への理解がしやすいということは、役のことを考えやすいということになり、演技の深みや質もどんどん高められます。

劇団森の自由さは、演劇のしやすさにつながっているのかもしれません。
僕も森の環境には大きく助けられていると思います。

個性豊かなメンバー


さて、ここまで書いてきましたが、実は演劇なんかしなくても自他理解はできます。どんなサークルに入っても自分と他人を理解する、もしくはしなければいけない場面にはきっと出会うと思います。

ただ、自他理解というのには常に危うさが付きまとうのも事実です。

僕は大学で中国哲学を専攻しているので、南宋の朱熹という人が書いた『中庸或問』という書物を引用して説明してみます。
漢字が苦手な人は飛ばしちゃってください。

安得直謂但能反求諸身、則不待求之於外而萬物之理皆備於我而無不誠哉

ようは
「自分の外の事物の理を知らないのにただ自分を見つめるのみで自分の心を正しくできるわけないだろ」
みたいな意味です。

何かを見る時点で自分のバイアスというのは入ってきてしまって、そんな状態で自分の心を直接みても正しい理解は得られないでしょ?ということを言いたいわけです。

上述の自他理解に危うさが伴うというのは、こういった考え方のもとにあります。ではどうすれば自分のバイアスを減らしていくことができるでしょうか。

その一つの答えが、演劇だと僕は思います。
自分とは全く違うキャラクターを演じることや、その資料として観察する他者というものを通して、自分を省みてみるというのはどうだい?という勧めをしてみる次第です。

演劇、しませんか?


劇団森で演劇をするという経験は、間違いなく自他を理解する助けになりますし、何よりそれだけ深く理解できた役を舞台上で演じるのはとても楽しいです。

今回のnoteでは、外に見せる方向で捉えられることの多い演劇を、役者は何を考えているんだろうという方向から紹介してみました。
あくまで一つの意見ですし、このブログはリレー形式なので外に見せるということの楽しさもいろいろな人が語ってくれることでしょう。

長くなりましたが、演劇に触れてみようと考えている人の一助になればと思います。
読んでいただきありがとうございました。

西見葵


(写真2,3枚目撮影、コトデラシオン様)


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