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冬。 寒波襲来(一)

みなさん、こんにちは! ずいぶん久しぶりのアクセスになってしまいました。

お元気ですか? 私はまあまあかな。まあまあなのかな。

ていうか、ちょっとうーってなってます。

なんでかっていうと、D評価もらってしまったからです。

寒波襲来です!


とairUコミュニティの日記に書いてみた。「確定」(投稿)ボタンはまだ押していないのだけれど…。

 D評価をもらったというのは本当。
 以前「芸術教養入門」という科目で、よくわからないまま書きまくって、A評価をもらったことがあったのだった。それで、同じ調子でいくつか他の科目に挑戦したら、それぞれ違う先生が添削してくれたのだけれど、どれについても「レポートは自分の思いをだらだら書くものではありません」とコメントされたのだった。とりあえず合格はしたけど。

 それで今度は、なるべく自分を出さないで図書館とかで調べたことをそのまま書いた(ウィキペディアはそのまま使ってはダメって、「芸術教養入門」で習ったので、それはしなかった)ら、今度は「自分の考えが書かれていない」って。それどころか、ちゃんと調べたし資料の名前も書いたのに、「相当部分で文献の文章がそのまま北白川さんの文として使われています。これは剽窃ということになります」「ちゃんと引用の手続きを踏んでください」という講評付きで、D評価で返ってきた。

「剽窃」という言葉はショックだった。ちゃんと調べて正解だと思った文をそのまま書いただけで、盗んだつもりなんか全然なかった。書き方はよくわからなかったけど、「参考文献」としてその本の名前はちゃんと書いたのに、ひどいと思った。

 でも、講評文を読んでいくうちに、先生の言いたいことがわかってきた。他の本に書いてあったことを、そのまま書いてはいけないのだ。高校の時までは、教科書に正解が書いてあったから、それをそのままかけばマルがもらえたけど、大学ではそうではないらしい。大学の勉強には「よりよい考え」はあるけれど、「正解」はないらしいのだ。もちろん、知識を問う問題はあるし、そういうところでは◯×はあるのだけれど。

 高校までは、教科書に書いてあることが正解だったし、それを覚えればよかったけど、大学からはそうではないらしい。高校までの教科書は、大昔からいろんな人たちがああでもないこうでもないと観察したり理論をつくったりそれを実験で確かめたりして確立してきた知識が書かれているもので、大学からはそういう確立してきた知識をおぼえる、というというのと少し違うところに行くらしい。それが「研究」というものらしい。

 その「研究」っていうのは、大昔からああでもないこうでもないとやってきた人たちの列に加わって、世界の未知の部分を明らかにして、教科書に書き足していくようなことらしい。

 そういう本格的な「研究」は大学院からになるらしいけど、大学ではその基礎になる、ちゃんとしたものの考え方やものの見方を学ぶらしい。このレポートもそういうものらしい、というところまではわかった。(わかったけど大変だ。大学に入るってそういうことなの? 研究者になるとかイメージしてなかったよ…。)

 いやまあそれはそれとして、本やホームページの文章を写すのがよくないことはわかった。でも、まだもやもやが残っている。それは「自分の考えを書きなさい」と「自分の思いを書くな」というコメントの矛盾だ。どうしろというのだ。

 とここまで考えて、まだ日記の「確定」ボタンを押していないことに気づいた。画面の前で考えているうちに、自己解決してしまったところもあるので、ちょっとさっきのまま書き進めて投稿する気がしぼんでしまった。そうだ、外苑さんにメッセージできいてみよう。

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「…ということなんですけど、どう思いますか? 先輩とか卒業生コーチにも聞いてみようかなと思ったんですけど、まずはゾノさんにと思って。ゾノさんは私と一緒の入学だけど、大学ひとつ卒業されてるでしょう? 論文とかも書いてると思うし。」と私。

外苑さん
「そうねえ。その辺りのことは一回目の人生の時にやっぱり考えたことあるわねえ。たしかに『自分の思いを書くな』と『自分の考えを書け』って言われたら困るかもね。」

「困りますよー。ていうか、ちょっと怖いですよー。」

「まあ、二回目の大学って二回目の青春みたいなものだから、実際そんな感じ。でもこれって、単純に『思い』と『考え』の違いなんじゃないの?」

「え」

「『思い』と『考え』って同じだと思う?」

「あんまり考えたことなかった。思ったことも。」

「『自分の思いばっかり書かないで』って講評されたときって、他にどんなこと書かれてた?」

「意見を書いたつもりだったけど、一面的とか無根拠とか好き嫌いでものをいっているとか、めちゃめちゃ書かれました。」

「思いっていうのは、一面的でも無根拠でも好き嫌いでもいいのよ。食べ物がおいしいとか猫がかわいいとか、あの人腹立つとかっていう、自分の気持ちについてのことだったら、別に根拠なくても多面的に考えなくてもいいと思うの。」

「自分の気持ち…。」

「でもレポートって、一応学問的なものでしょう? 誰が読んでもなるほど、って思えるものじゃないといけないの。」

「『考え』は、自分の気持ちだけじゃないっていうこと?」

「私はそうだと思う。読んだ人が、なるほどって思えるようにするにはどうしたらいいと思う?」

「ちゃんと根拠を示す…」

「うん」

「筋道がちゃんとしてるようにする…?」

「論理的っていうことね。考えてるって、そういうことじゃない?」

「そうですね…。でも好き嫌いは、だめなのかな…。アートとかって、好き嫌いじゃないんですか? いいとか悪いとか、言えるものなのかな…。」

「私もそのあたり勉強していきたいんだけど、好きなものは好きっていうの大事だと思うし、いいと思うの。でも、『これが好き』『これが嫌い』ばっかり言われたら、イラっとこない? こっちが好きなものを無根拠に『ダメ』っていわれたら、やっぱり納得できないし。そういうのって少なくとも『なるほど感』はないでしょ。」

「たしかに。」

「なんでそれを『良い』とか『いまいち』って思うのか。自分に聞いてみることが大事だと思うわ。脳のどこかで、何かを基準にして判断してるのよ、きっと。」

「『私はこう思う』を、『どうしてそう思うのか』で補強したら、『考え』になるのかな。」

「たぶんそう。『どうしてそう思うのか』を考えていろいろ調べたら、自分の思いが一面的だったり偏ったりしてるって気づくこともあるだろうし、もっち自信持てる場合もあるだろうし。いろんな文献を調べたりっていうのも、知識を覚えるためとかじゃなくて、そういう『考え』を進めるためにするんだと思うの。『私はこれが好き』っていうのは、大事なことだと思うけど、それは出発点っていうか、調べて考えていくことで、『好き』もバージョンアップされるんだと思うよ。」

「外苑さんすごい…。『思い』で突っ走るのと、『考える』のは違うような気がしてきました。ありがとうございました。」

「これは私の経験上からの意見だから。卒業生コーチやコンシェルジュにも聞いてみたら?」

「ですねー。でもまず自分でも考えてみます。」

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 カッカしてたけど、いつのまにか、『考える』モードになっていた。学友すごいな…。同期入学なのに大先輩だし。いろんな人がいるってすごい。

 Dもらったレポート、もう一度見直して考えてみよう。「自分の思いをだらだら」書いてC評価をもらったレポートも、合格はしてるけど、見直してみる。次にきっと役立つはず。

 教科書を書く学者になるわけでもないのに「ものの見方や考え方」を学んでいくことに、どんな意味があるのかまだわからないけど、何か少し方向が見えた気もする。

 目を上げてモニターの向こうの窓を見ると、雪が横向きに降っていて、風の音もすごい。別に戦ってるわけではないのだけど、「まけないぞ」と思ってみた。

(続く)

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