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春。右も左も (一)

(一)
 いつもより早く目が覚めた。

 まだ薄暗いはずなのに、カーテンを開けると乱暴な感じで光が部屋に入ってきた。マンションの中庭の桜が満開になっていたのだった。昨日はまだ五分咲きくらいだったのに。早い。きれいなんだけど、なんだか落ち着かない。
 早く目が覚めたのは,今日が一応特別な日だから。京都芸術大学の入学式なのだ。入学式は午後からなので、時間的には余裕なのだけれど、どうもそわそわしてしまう。

 もう一度窓の外を見る。桜ってこんなだっけ? とも思う。桜が咲くたびにそう思っていたような気もする。見慣れているようで,やっぱり久しぶりで、記憶の中で色褪せていっているのと,目の前の鮮やかさのギャップに、おおお…ってなるのだと思う。

 でも去年はそんなふうに桜を見た覚えが全然ない。桜の存在も忘れていた気がする。多分ずっと下を向いていたのだと思う。去年の今は、大学受験に全部失敗して、落ち込んでいたのだった。歌のタイトルではないけれど、本当にそういう時の思い出はモノクロームなんだなと思う。

 親が教師ということもあって、なんとなく教育系を目指していたのだが、浪人して受験勉強をしているあいだに、本当は何をしたいのか、何をどうやりたいのかわからなくなってきていた。そういうことは大学入ってから考えれば? 周りもそう言うし、今もそれで正解なんだとは思うけれど、なんだか意気の上がらないまま一年を過ごしてしまった。

 お父さんが京都芸術大学のパンフレットを持ち帰ってきたのは、去年の冬になってのことだった。

「おまえ、美術部だったろ。こういう方面もあるのかなと思って。」

ということだったのだけれど、その時点では私は目の前の志望校の受験のことで頭がいっぱいだったので、ほぼ完全にスルーしてしまった。確かに絵も好きだったし、画材だって捨ててないけど、この一年はそんなこと考えなかったし、なんで今頃そんなこと言うんだよだいたいわたし程度の画力で芸術大学なんて通用するわけないじゃんばっかじゃないのと思ったのが正直なところだ。言わなかったけど。

 それで今年はどうだったかというと、やっぱり全敗だったのだ。この時の気分の詳細は省略する。一言で言えば「ガーン」であった。でも、もう一年浪人する自分も想像できなかった。そこでようやく、ベッドの下に放ってあった大学パンフを開いてみたのだった。

 開いてみると、いろんな色が目に飛び込んできた。その時点でこれまで目指してきた大学とは全然違う世界だ。考えてもみなかったような学科やコースがある。楽しそうだ。こういう人生もあるのかと思った。ただ、この二月の時点では、通学部の入試は終わってしまっていた。やっぱりもうだめなのか、と思った時に目に入ったのが、

「手のひら芸大」の文字だった…。

 そういうわけで、
京都芸術大学通信教育部芸術教養学科に入学した、北白川ユイ、十九歳です。よろしくお願いします。芸術教養学科を志望したのは、大学卒の学位が欲しかったのと、学費が安かったのと、右記理由によりなにより入試がなかったからです。それと何でも勉強できそうだったから。絵も好きだったけれど、そっちを本気でやっていく感じでもなかったので、イラストレーションではなく芸術教養学科にしました…。

 ガイダンスとかでもしかしたら、自己紹介とかあるのかもしれない。頭の中で何回もシミュレーションしているうちに、行く時間になってしまっていた。

 行ってきます!

 玄関を出て、マンションの中庭に出ると、さっきの桜の枝下に飛び込む。下から見ると、窓からと違って青空が背景になるので、見上げるとおかしいくらい派手だ。

 ここからは歩きながらになるけれど、こういうわけなので一番行きたい大学に受かって入学した、というのとはちょっとというかだいぶ違う春なのだ。モヤっとするところも正直あるのだけれど、これまでとは違う日々が始まるのだと思う。そしてそれはたぶんそんなに悪くないような気がする。

 桜が去年と全然違うから。

(続く)

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