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集中力。

6~7月にかけて取締役会や役員会が開催され、経営層の人事が発表される。
先日、取引先の常務の退任が決まったとのことで挨拶に来られた。

コロナの影響はまだまだ消えていないので、お迎えするこちらも先方もマスクをしたままの談笑となった。
そういえばこの方は以前よりあまり口を開けずに小さな声でぼそぼそとおもしろいことを言われるタイプだったが、マスクをすると口元が完全に隠れてしまい、対面ですぐそばにいるにもかかわらず全然声が聞こえない。正確に言うと、音は聞こえるのだけど何を言ってるのか分からない。

隣に座る部下の方に目をやるも、長年お仕えしている上司の言うことはだいたいが推測がつくから
聞くところとスルーするところを上手にコントロールしていて、ようするにほとんど聞いていなかった。

常務は最初の10分ほどノンストップで話されたところで、こちらが出したコーヒーに口をつけようとマスクを下げた。紙のコーヒーカップを口元に持っていって、ズズっと飲んだところで気付く。

彼には前歯がなかった。
正確に言うと、歯の中でいちばん目に付く真正面2本の片方の1本だけ見事になくなっていた。
前歯が1本ないと、どういうことが起きるのか。
のどへ送り込んだコーヒーの一部が静かにリバースするんである。

通常は飲み物を飲む時に頭ごと斜め10度ほど上に傾き、のどまで来たら飲み込んで、元の位置に戻すが、歯があるためにたとえその時点で一部の液体が口の中に残っていたとしても口からは出ない仕組みになっている。
前歯は物を噛むためだけでなく、実は口の中に入ったものが外へ出ないようにするストッパーの役割があったと、実はそれこそが前歯の重要ミッションなのだということが理解できた。

常務がコーヒーを飲むたびに口元にコーヒーの一部が戻ってきて、あふれ出る。
もうその時の私は介護福祉士で、      「コーヒーこぼしちゃいましたね~おじいちゃん~お口拭きましょうね~」という気持ちが抑えられない。
テーブルにはちょうどティッシュもあったので、そのティッシュを手渡したい!早く口拭いて!と思うも、当のご本人はそこまで気にしていないから、すでに十分あふれ出たところでやっと気づいて手の甲でぬぐう。手の甲には、キャップが壊れて当初の予定の倍以上に出てきたハンドローションくらいコーヒーの水滴。          
「その手はどこで拭くんですか」と、意地悪な小姑のようなツッコミを入れたい気持ちにかられる。

コーヒーを飲むたびに私が熱いまなざしを向けていたのをすっかり誤解した常務は、そこから40分うれしそうにいろいろなことを話された。
50年ちかく同じ会社で働いてきたサラリーマン大先輩の話は、聞けば聞くほど時代背景も違っておもしろかった。

最初はとにかくこの前歯に翻弄されていた私だったが、一時間もするとすっかりその姿に反応しなくなっていた。慣れとは怖いものだ。

「退職金でぜひ前歯を!」と心の中で思いながら玄関でお見送りした六月のさわやかな午後。

結論:前歯を入れるかハンカチを持つか。それが問題だ。

温かいお気持ち、ありがとうございます。 そんな優しい貴方の1日はきっと素敵なものになるでしょう。