2024/10/02

お風呂ではいつも歌っている。気分がいいからでも、声の響きがいいからでもない。ふだんは歌えないから歌う。世界には自由に歌える場所があまりに少ない。

宇多田ヒカルの曲に「ぼくはくま」という曲がある。そのなかでくまはうたう、「歩けないけど踊れるよ、しゃべれないけどうたえるよ」と。私たちの世界は当たり前のように、歩くの先に踊るがあり、しゃべるの先に歌うがある。この世界観を当然のように受け入れていると、くまの台詞はおかしな響きをもつ。しかし、本当に歩くの先に踊るがあり、しゃべるの先に歌うがあるのだろうか。踊るの先に歩くがあり、歌うの先にしゃべるがある可能性はないのだろうか。

なぜ歩くとしゃべるが手前にあると考えるのか。それはどちらも目的を達成するための手段になるからだ。踊るも歌うも自己目的的で、ほとんど手段にはなり得ない。つまり、踊るも歌うも袋小路なのだ。歩くとしゃべるには汎用性がある。だから、私たちははじめにその方法を教えられる。

しかし、私たちは自己目的的で、袋小路で、先のない行為をこそ、愛しうるのではないか。ずっとどこかに届かない気がしている。ずっとなにかが足りない気がしている。私の欠落は欠落であり続ける。欠落を埋めるのではなく、欠落で遊ぶ。届かなさと足りなさを生きる。それは自己目的的であり続けることだ。

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