目を見て話す
他人の目を見て話せるようになった。むかしからできなかったわけではなく、むかしはできていて、そして一時期(つい最近まで)できなくなっていた。
理由はいくつかあると思う。
ひとつは自信の問題。自分に自信がないと他人の目を見つめることは怖いことだ。他人が自分をどのように評価しているか、目を見ているとありありとわかってしまう。それが必ずしも肯定的な評価とは限らないから、どうしても目を伏せて、相手と目を合わせたくなくなってしまうのだ。
もうひとつには、配慮の問題がある。他人を凝視することは憚られるべきだという規範が最近は醸成しつつある。相手が不快になるようなことを避けるという原理原則の延長として、多くの人はその規範を受け入れている。
私は前者についてはある程度克服し、後者については開き直った。
前者はほとんど外見の問題にすぎない。自分が相手の目を見るとき、相手は自分を見ている。この見る/見られるという視線の相剋関係をどう考えるか。単純に見られてもよい自分であればいい。外見については他人がどう思うかを操作することはできないのだから、参照すべきは自らの基準だ。それを満たすか満たさないか。だからその基準を不用意に高く設定するべきではない。私たちは作為的な美しいものばかりを見てそれを美の基準として受け入れてしまっているが、普段着の美を正しく認識するべきだ。生活に溢れる美を正しく受け止めることができれば、自分の足りている部分がちゃんと見えてくる。
後者については、開き直りかたとしてはとても単純だ。相手の目を見るまでは相手が不快かどうかはわからない。ただそれだけのことだ。例えば、相手に触れるという行為はどうしようもないことではない。身体的な接触は基本的に意図しなければ生じ得ない。だから、一度たりともチャンスはない。しかし、見ることはちがう。lookではないseeがあるように、どうしても「見えてしまう」。だからこそ、一度は相手の目を見ることができる。相手の目を見て、不快そうであれば距離をきちんととりなおせばいい。その一度目までも拒絶されていると考えなくていいのだ。
他人の目を見て話すことはとても楽しい。適切な視線の相剋状態におかれることは、関係性が対等であることを意味する。対等である関係性において、まずは主体としての視線をもち、あとから客体として視線を感じるようになる。これを逆転させてしまわないようにすることだ。見られる存在として消費されてばかりいてはいけない。私たちはまず見るのだ。そのうえで、視線を調整していくのだ。見ることは主体的な自由を勝ち取ることに等しい。見つめることもできない相手との関係性において自由など存在しない。
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