2024/10/03
最近Twitterをちょろちょろ見ていると、リスカ痕に対するつぶやきを何度か目にした。そのどれもに、リスカ痕が見える写真をSNSにあげるのはよくないという趣旨のことが書いてあった。その理由は大きく二つに分類できて、ひとつは気分を悪くする人がいるから、もうひとつは心配してもらうための承認欲求にすぎないから、というものだった。どちらの理由にも納得できなくて、どうしてリスカ痕が写真に映ってはいけないのかは結局よくわからなかった。
私自身リストカットをしたこともないし、したいと思ったこともないが、ひとがどうしてリストカットをしたくなるのかはなんとなく理解できる。もちろん理由はさまざまで、これ以上生きるのがつらいからとか、だれかが心配してくれると思ったとか、退屈しのぎに刺激を求めたとかがあるのだろう。どれも近からず遠からずでわかる気がする。似たようなことを胸に抱いた記憶がある。私の場合、それがリストカットという行為に結びつかなかっただけだ。身近にリストカットがなかっただけ、それだけで私の手首は無事なのだけれど、リスカ痕を写真に映すなと声高に叫ぶ人の手首はどういう理由で無事だったのだろうか。
一家で仲良く暮らしていた家の柱に成長の記録として身長が刻み込まれる風景。それは生きた記憶と結びつく記録だ。リスカ痕もそうだ。死ねなかったり生き延びたりした記憶と結びつく記録だ。それはたしかに個別的なことで、きわめてプライベートな傷跡だけれど、それ以上でもそれ以下でもない。そして、それはあくまでも傷跡にすぎない。リスカ痕だけを見て、人を推し量ろうとすること自体がまちがっている。私たちにはその人が自分の手首を傷つけるに至った経緯も、理由も、その当時の思いも知らない。なのになぜ、存在しているものをあたかも存在しないように振る舞えと言うのだろうか。
写真に映るリスカ痕は、だれかが苦しい夜にかけた電話と、書いたメッセージと、書きなぐった思いと何がちがうのだろうか。私が苦しい夜に書いた詩と、だれにも聞こえないように歌った歌と、涙を流しながら聴いた音楽と何がちがうのだろうか。手首に傷跡をもたない私たちは、苦しい夜に自分の身体の存在に気がつかなかっただけだ。気がつかなかっただけなのに、踏み込む勇気がなかっただけなのに、だれかに偶然声が届いただけなのに、いつのまにやら私たちの手首に傷がないことは必然であるかのように語られる。身体にだけ傷跡を残さなかった私たちが、身体に傷跡が残ってしまったひとに対してあれこれ言う資格はない。
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