2024/10/04

今日はTwitterで頑なに自分以外の読解を認めない人を観測していた。私は以前その人の投稿を不躾に引用したことがあり、それを怒られたのだが、怒られ方が「早く屏風から虎を出してください、出せるから私の投稿を引用したのでしょう?」というものだったので、レスバに勝ちたいだけの人なんだなと思って、その後はスルーしていた。わりと本を読む人のようで、本文を引用しながら論理の飛躍や矛盾を指摘しているのを何度か目にしたことがある。すべての文章を真として受け取るのではなく、懐疑的・批判的に読むことを追い求めた結果、ああなったのだと思う。怖いのは本人は嬉々としてやっていそうなことで、疑問をもつことは当然許されているから、その「正しさ」に担保されているのが心地よいのかもしれない。

その様子を見ながら、レスバはいつから始まった文化なのだろうと思った。現実の世界では言い争いは頻繁に起こったけれど、レスバのように不毛に長く続くことはなかった。現実の世界ならば、途中、埒が明かないとわかった時点で話を切り上げられるが、文字情報でしかやりとりしない場合には、やめるタイミングがわからなくなってしまう。そう思ったとき、はじめて携帯電話を持った小学生の頃を思い出した。あのころ、リプライは愛だった。愛以外の何者でもなかった。いつのまにかリプライは愛ではなくなってしまった。

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