京アニの事件に対して感じたこと

すみません。はじめに断っておきます。

これは自分の強い感情を記すためのもので、読まれることを想定した文章ではありません。思い出したくない方はもちろん、意味のある情報を期待する方もお引き取りください。

私は、京アニのファンというには勿体無い程度の、普通のアニメ好きです。「涼宮ハルヒの憂鬱」でオタクになり、「けいおん!」「響け!ユーフォニアム」「リズと青い鳥」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」などを通ってきました。私より深く京アニを愛している人は無数におり、私が特別なことは何一つありません。

どんな言葉も、文章も、表現も、あの事件を記すには不十分であり、何を記してもあなたの感情を鎮めることはないでしょう。ただ、不十分であることを確認するだけです。

ただ、何か思考を整理する助けになるかもしれないと思って書きます。


ヴァイオレット・エヴァーガーデンを、今日見終わりました。

放送当時は(普段はバトルやSFが好みなので)撮りためたまま見逃していたのですが、とても魅力のある作品でした。変な感想かもしれませんが、「手紙を書くというだけの物語で、一体何が進むんだろう?」という疑問があったのが、登場する人物が徐々にヴァイオレットの本当の心に迫ってくるのを目の当たりにして、これは一種の心のバトルであり、成長物語なんだな、と感じました。「心がどれだけ現れているか」を段階的に、繊細に、緻密に描き分けることができる京アニだからこそ表現できる物語だと思います。

微細な心の変化は、どんな映像作品でも表現の一部にはなりますが、それを軸として作品を構成していく手腕は、京アニの強みだと思いますし、文字通り、かけがえのない、ものです。


復活を願う声が多くありますし、アニメファンとしてはそれを願わずにいられませんが、同時に、おそらく誰もが感じている(そして言わないでいる)事として、「完全な復活はありえない」事がどうしても頭から離れません。

たとえ10年20年かかって同じ技量を持つ人材が集まったとしても、「ありえたはずの作品」はもう二度と実現されることがない。クリエイター、特に絵というものは、それだけの強い固有性を持っていると感じます。

おそらく、作品が復活を果たした時に、それを祝福すると同時に、必ず悲しみを同時に抱くことになる。それを排他的に考える必要はありません。悲しみを忘れるべきでもなく、祝福を忘れるべきでもない。排他的ではなく、共にあり続けるのだと思います。


悲劇を、他の悲劇と比べることほど愚かな事はありませんが、それでも、私の心に深く残るという意味で、この事件はこれまでの人生で見聞きしたあらゆる事件より辛いものです。

それは、失ったもののかけがえのなさ、大きさもそうなのですが、一方で、その大きさに対して、原因(と考えられる犯人の動機)があまりに矮小である、という点が辛いのです。

自然災害やテロというものは、その原因を取り除くための努力というものを考え始めると途方もなく、大きなうねりに対する無力を感じます。

しかし、1人の人間の暴走により、その脳内物質のどこかが何かおかしくなった事により、その信じがたいほど小さいゆらぎから生み出された結果として、今回の事件は、あまりに、あまりに大きくありませんか。

そのスケーリングが、恐ろしく信じられない。どこか1つのスイッチが違っていたら、結果のスケールはまるで違ったかもしれない、かと思うと、、、すみません。もう読むのも辛いかと思います。終わりにします。


最後に。被害に遭った方々が1つの会社であったために、今回の事件に対する支援は難しい部分も出てくると思いますが、ゆめゆめ忘れてはならないのは、世界的に見ても歴史的に見てもありえない規模のテロであり、被害者が文化の担い手であったかどうかに関わらず、救いの手は差し伸べられて然るべきです。


彼らの分も、生きて、生きて生きて、そして死ぬまで。

彼らの作品によって生み出された感情を、私は忘れません。

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