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「石膏像図鑑」あとがき

あとがき

小中学校・高校、あるいは美術予備校で、おそらく世のほとんどの人が一度は実物を目にしたことがあるにも関わらず、石膏像について何らかの関心を払う人は驚くほど少ない。「石膏像」という言葉を耳にして、「ああ、あの美術室にあった白いヤツね」と皆一様に答えてくれる。見たことはある、知っている。でもその先は?なぜあんな白い物体を描くのか?しかつめらしい顔をした男は誰なのか?エロティックなものの排除に余念のない学校教育現場でなぜ石膏像だけは堂々と裸体を晒しているのか?美術を志す生徒であれ、教師であれ、このような問いに的確に答えることが出来る人はそう多くはないだろう。

石膏像をデッサンし写実表現の鍛錬とする行為は、16世紀以降のヨーロッパ各国で相次いで設立された王立の美術アカデミーを舞台に始まったものである。ルネサンス期以降、古典・古代との継続性の中に自身の文明を再定義したヨーロッパ社会では、美術の分野でも古代ギリシャ・ローマを範とするようになる。続々と発掘される古代彫刻の姿は、長い中世の間に失われていた美の象徴であり、美しい人体の基準、彫像に託された神話性などのエッセンスを吸収することは画家・彫刻家を志す者にとって必須となっていった。ただ発掘物の数は限られており、その多くが王侯貴族の所有物となり広く公開されるものではなかったため、その代替品として石膏像が広く用いられるようになった。石膏像をデッサンするという行為は、単なる美しい形態の模写・その修練という意味合いだけではなく、ヨーロッパ文明が自身の起源とする古代ギリシャ・ローマ文明から美の規範を学ぶことだったのだ。

ヨーロッパにおける石膏像の生産は19世紀にそのピークを迎える。列強諸国の調査隊によって、ギリシャ、イタリア半島、エジプトなどの地で考古学的な発掘・発見が相次いだのに呼応するように、それらの発掘物を複製した石膏像が活発に取引されるようになった。当時は写真術が十分に発達していなかったため、オリジナルの発掘物の所有国以外がその姿を知る最良の方法は石膏による複製品だったのだ。英国(サウスケンジントン美術館)、フランス(比較彫刻博物館)、ドイツ(マンハイムアカデミーのコレクション)、米国(ボストン美術館)などに巨大な石膏像コレクションが形成され、自国民の美術教育水準向上のために大いに活用されることとなった。しかし19世紀末になると、絶対王政の衰退、市民社会の形成にともなって、個人の作家性を重要視する新しい芸術の潮流が持てはやされるようになり、旧来のアカデミズムの系譜に位置づけられる作家たちは傍流へと追いやられてしまう。時代は、個人の天才性が生み出す唯一無二の芸術作品こそを賞賛するようになり、古代ギリシャ・ローマ文明に従順であれとするアカデミックな思潮は徐々に衰退していった。このような変化に伴って、各国の美術館で大きなスペースを割いて展示されていた巨大な石膏像コレクションは「安易な複製物」とのレッテルを貼られ、20世紀初頭にはその大半が撤去されてしまったのである

我が国に石膏像がもたらされたのは、ヨーロッパで石膏像への熱狂がピークを迎えつつあった1876年、工部美術学校の設立時に遡る。イタリアから赴任した美術教師達が、デッサンの素材として携えて来日したものが起源である。イタリア人教師たちは、ヨーロッパのアカデミズムに基づく美術教育を施すための素材としてこれらの石膏像を導入したのだが、当時の日本では西洋式の絵画・彫刻への理解が未熟で、その効果は十分なものではなかった。工部美術学校はわずか6年程度で廃校となり、残された石膏像は帝室博物館、その後1889年に設立される東京美術学校などに引き継がれることとなった。石膏像の活用が本格化するのは、東京美術学校に西洋画科が加えられた1896年以降である。洋行から帰国した黒田清輝らが教師となり、西洋画の基礎技術習得のために石膏デッサン教育が行われるようになるが、19世紀末のアカデミズムの衰退傾向が顕著だったフランスで西洋画を学んだこともあり、石膏像の活用法にはヨーロッパのそれとは大きな隔たりが生まれることとなった。西洋のアカデミー教育では古典・古代の理想美のお手本として石膏像が活用されていたが、黒田の主導した西洋画教育ではそういった要素は後退し、石膏像は人物を模した「モチーフ」と捉えられるようになる。石膏像は静止して白一色で陰影が捉えやすいため、生身の人物や、草花・風景を描く前段階の訓練材料として最適であるとされた。そこでは石膏像が持つ歴史的な背景ははぎ取られ、単なる形態把握の訓練に便利な教材と位置付けられたのである。均一な姿を提供してくれる石膏像を繰り返し描くことによって身に付く観察力、描写力、その先にある写実表現の充実こそが目的とされた。20世紀初頭に生まれた石膏像に対するこのような(日本独特の)認識は、その後100年以上にわたって営まれてきた美術教育に於いても大きく変化することなく現在に至っている。

冒頭に挙げた石膏像へのいくつかの素朴な疑問は、このような歴史的な背景から生まれてくるものなのである。極論すれば、石膏像のオリジナル彫像が何をテーマとし、誰を描写しているのか、どのような時代背景で成立した作品であるのかといったことは、日本の美術教育における石膏像の取り扱い上さして重要なことではない。古代ギリシャ・ローマを自国の文化の起源とするわけではない我が国で、石膏像が独自の解釈をされて活用されてゆくことに何ら異論を唱えるつもりはない。しかし、それでもなお石膏像というものが本来持っていたはずのストーリーをあらためて知ることは意義深く、美術教育の様々な局面でより豊かな体験を得る手助けになるものと信じている。

本書は、筆者が2009-2014年にAmeba内で執筆したブログ「きょうの石膏像」の内容を下敷きにし、大幅に加筆・修正を加えたものである。ブログの開始以前から、日々の石膏像の製作・取り扱いを行う中で、オリジナル彫像に関する様々な情報が断片的に集積されており、それらをなんとか体系的にWeb上に構築・提示して、より多くの人々と情報を共有することがブログの目指したところであった。約5年間のブログ連載の成果を、筆者が運営する石膏像工房「堀石膏制作」の製品カタログとしてリンクさせたものが本書である。ところどころ不完全なページはあるものの、各々の石膏像に添えられたオリジナル彫像に関するストーリー、収蔵美術館・発掘の経緯などの様々な情報からは、西洋彫刻史(古代エジプト~古代ギリシャ・ローマ~中世~ルネサンス~ロココ~近世へ)を体現する存在としての石膏像の姿を感じ取っていただけるものと思う。「安易な複製物」というだけではない石膏像の側面を、わずかでも伝えることが出来るなら本書の目的は達成されている。

国内の既存の出版物には、石膏像の来歴について論じたものは皆無に等しく、単なる石膏像職人の筆者にその資格がないことは重々承知の上で本書を執筆した次第である。本書に記述された様々な彫像に関するデータの多くは仏版・英版のWikipediaに拠っている。また各国美術館がWeb上で提供している様々な情報も参考にした。ネット上の情報を下敷きにして書物を製作するというのは、まったく本末転倒であるのだが、それほどまでに西洋彫刻に関しての我が国の出版状況というのは寂しいものだということをご理解いただければと思う。掲載された写真は、Wikimedia内のパブリックドメインのもの、筆者が撮影したものである。それ以外のものについては注釈を付けた。

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