見出し画像

WTテコンドーのプムセ(型)成立の歴史(2023版)

※ 本ノートは上記ノートの焼き直し記事になります。

初期のテコンドー

 テコンドーという名前が誕生したのは1955年。命名したのは空手家であり、陸軍の将軍でもあった崔泓熙将軍でした。崔泓熙将軍は1959年に当時、韓国にあった九つの主要な空手道場・拳法道場(九大館)を統合して大韓テコンドー協会を設立します。設立直後の1959年に崔泓熙将軍が発行したテコンドー教本の中には以下の 3 つの流派がテコンドー型として載せられていました。

小林流:太極(1 型~3 型)、平安(1 型~5 型)、拔塞(大・小)、観空、 燕飛、岩鶴
昭霊流:鉄騎(1 型~3 型)、十手、半月、慈恩
蒼軒流:花郞、忠武、乙支、三一、雩南(初版のみ。二版以降は忠壮と入れ替わる)
※ 太極(1 型~3 型)は現在のテグプムセとは全く異なる空手の型。

 このうち、小林流と昭霊流というのは松濤館空手の開祖である船越義珍が空手の型を大きく二つに分けた事に由来する流派でした。小林流は痩身で身のこなしが素早い者に適し、昭霊流は体格が良く力強い者に向くとされていました。これらの型はそのまま空手道で修練されている型でした。
 しかし、三つ目の流派である蒼軒流の形は松濤館空手には存在しないオリジナルの形です。蒼軒とは崔泓熙将軍の雅号であり、彼が軍隊内で広めていた唐手道の名前が蒼軒流唐手でした。崔将軍は日本統治時代に中央大学に留学しており松濤館空手二段の段位を習得していましたが、崔将軍自身は朝鮮民族の独自武道としての道を模索し、独自の流派を作り始めていました。

 崔泓熙将軍がテコンドーという名称を使い始めた頃、韓国九大道場の館長たちの中には反発の意思を示す人は少なくありませんでした。武徳館の黄琦は唐手道を、松武館の盧秉直、彰武館の尹炳仁、智道館の李鐘祐などは空手道を主張して反対をしていました。

 しかし、当時の崔将軍は李承晩大統領と国軍を背景にした大きな権力を持っていたため、民間の組織の及ばない大きな影響力をもって大韓テコンドー協会を設立し、韓国国内の空手道場を併呑して行きました。特に「倭色」と呼ばれる日本文化を排除していた当時の韓国国内では日本文化である空手をそのままの名称で修練する事に対する厳しさもあったものと考えられます。

 1961年にクーデターによって李承晩大統領が失脚し、朴正煕政権の時代になると崔将軍自身も朴大統領との対立により軍職を退きました。これにより、崔将軍が今まで通りの権力を持てなくなり、大韓テコンドー協会の名称がテコンドーの「跆」と空手道の「手」を合わせて跆手道という名称を使う様になりました。この大韓跆手道協会が行った初めての昇段審査では、

【初段】 平安5段、鉄騎初段、内歩進初段、慈院、[花朗]
【二段】 抜塞大、鉄騎二段、内歩進ニ段、騎馬ニ段、[忠武]
【三段】 十手、抜塞、燕飛、(短拳)、鷺牌、[階伯]、[乙支]
【四段】鉄騎三段、内歩進三段、騎馬三段、慈恩、鎮手、岩鶴、鎮東、(長拳)、[三一]
【五段】 公相公、観空、五十四歩、一三、半月、(八騎拳)

 上述されるような上述されるような型を審査対象としていたと言われています。ほとんどが空手の形ですが、( )で囲んだ形はYMCA拳法部(彰武館)の尹炳仁が満洲で学んだ拳法の形であり、[ ]で囲んだ形はのちのITFテコンドーへと引き継がれていく崔将軍が作った蒼軒流の形でした。

韓国国技院の公認プムセ

 1965年にマレーシア大使から帰国した崔泓熙将軍は大韓テスドー協会の会長に就任すると、名称を大韓テコンドー協会に戻しました。崔泓熙将軍は自らが作った蒼軒流の形を他の道場にも広めていきたいと考えて居ました。しかし、この頃のテコンドー界はすでに軍隊を中心とした崔泓熙将軍派と民間を中心とした後に韓国国技院へとつながってく一派に分かれていました。前者は後のITFテコンドーとなり、後者がのちのWTテコンドーへと変化していきます。この対立は型の呼び方にも表れます。当時は空手の用語を使ってヒョン(型)と呼ばれていた物を崔泓熙将軍がトゥル(枠、틀)と呼び始めたことに対抗し、大韓テコンドー協会はプムセ(品勢、품세、poomse)と呼び始めます。
 また、1968年には大韓テコンドー協会はプムセ制定委員会の名義でテグヒョンイルジャン~テグヒョンイージャン(太極型一章 태극형 제1장、太極型二章 태극형 제2장,)、パルゲイルジャン(八卦一章)~パルゲパルジャン(八卦八章)、コリョ(高麗、演武線:|)、クンガン(金剛)、テベク(太白)、ペクチェ(百済)、シプチン(十進)、 ジテ(地跆)、 チョンコン(天拳)、ハンス(漢水)、シルラ(新羅)の十九個の形を制定しました。これは1965年に計画が始まり、1967年に完成したといわれています。

この時のメンバーは次の六人として知られています。
松武館のイ・ヨンソプ
韓武館のイ・キョユン
青濤館 のパク・ヘマン
吾道館のジョン・ミョンヒョン
彰武館のキム・スンベ
智道館のイ・チョンウ

 1961年の昇段審査で用いられた形は蒼軒流を含めて全て排除された形になります。(ただし、太極型の二つは演舞線が|であり動作も簡単過ぎることから後に削除されています)このような大韓テコンドー協会の動きは対立の溝を深める事となってしまいました。崔泓熙将軍は海外の弟子達を中心に9か国の承認を得て国際テコンドー協会(ITF)を設立。初代総裁に就任し、海外に向けて自らが作った蒼軒流のテコンドーを広めていく体制を整えました。更に1972年に東ベルリン事件が原因で韓国からカナダへ亡命すると、韓国国内の大韓テコンドー協会は世界テコンドー連盟を立ち上げ、二大流派の分裂が決定的なものとなってしまいました。

 1972年には大韓テコンドー協会は再度プムセ制定委員会を招集します。1968年には韓国国内でも有数の大道場である武徳館の指導者が参加していなかったこともあり、武徳館のハン・ヨンテ師範と智道館のべ・ヨンギを加えたメンバーで、子供や青少年の修練に合わせた型として現在に知られる太極品勢(テグプムセ)を8章作りました。また、有段者型も高麗品勢(演武線:|、下の動画参照)を現在の高麗品勢(演武線:士)と差し替えています。

 この後も八卦品勢(パルゲプムセ)は無くなった訳ではなく、公認プムセとして残りました。ただし、八卦品勢には章ごとで難易度が大幅に異なるという問題点がありました。例えば、YMCA拳法部(彰武館)で学んだ後に軍人となり青濤館の指導者となったパク・へマン(박해만)が作った八卦三章と八卦五章のうち八卦五章は有級者にとって難易度が非常に高いという問題点がありました。
 このため、1975年には八卦五章は八卦八章へと名称が変わり、それに伴って、八章が七章、七章が六章に代わります。六章と四章も難易度の関係から入れ替わり、六章が四章、四章が五章になります。また、これに合わせて八卦全体で28か所が変更になりました。また有段者プムセ全体では51か所の動作が変更になっています。

 上の動画を見ると、元々八卦五章だった型(現・八卦八章)を簡素化したのが太極五章(テグオジャン)であることが伺えます。

 八卦品勢が公認プムセから外された年代は定かではありません。90年代の書籍の中にも名前は登場しています。2000年代に入って出版されたテコンドー関連書籍で八卦が公認品勢から除外されたり、修練が行われずに廃止されたという情報が現れ、特に2005年に国技院が発刊したテコンドー教本で公式に八卦が除外されました。

 また、1987年には韓国国技院がハングル学会のハングル学者7人の諮問を得てテコンドー基本用語の一部を韓国語に変更しました。この時、プムセ(品勢、품세、poomse)はプムセ(품새、poomsae)と改められています。また、ペクチェ(百済)がピョンウォン(平原)、シルラ(新羅)がイルリョ(一如)と今日に知られる名前に改名されたのもこのタイミングです。

【参考ウェブサイト】