WTFテコンドーのプムセ(型)の歴史

 日本のテコンドー界でもあまり知られていないのですが、国際武道大学の朴周鳳准教授や、早稲田大学大学院の鄭卿元氏など、韓国人が日本に来てテコンドーの歴史に関する論文を書くという事は珍しい事ではありません。

 例えば、朴准教授は早稲田大学の大学院を卒業した時の博士論文の中で「実際には空手をモデルにしながらも、これに部分的変更を加えて韓国の武芸としたテコンドーを創造するに至ったのである」と書いており、韓国国内では歴史修正主義者として批判の槍玉に挙げられるような言論が、日本では比較的発表しやすいという利点が有るのかもしれません。

 そのような論文の一部はインターネット上で公開されており、テコンドー修練者としては、学術的な裏付けのある客観的な資料が読めると言う事は非常に有意義な事だと考えて居ます。

 さて、WTFテコンドーのプムセ(型)について語りたいのですが、先ずはプムセ(型)について語る為に必要な歴史的な知識について、これらの論文から抜粋して書き出したいと思います。

ITFテコンドーとWTFテコンドーの型の違い

 先ずテコンドーには全く異なる二つの流派が存在します。ITF(国際テコンドー連盟)テコンドーとWTF(旧:世界テコンドー連盟 現:世界テコンドー)テコンドーという二大流派です。

 例えば、ITFテコンドーにはチョンジ(天地)、タングン(檀君)、トサン(島山)、ウォニョ(元曉)、ユルゴク(栗谷)、チュングン(重根)、テェゲ(退渓)、ファラン(花郎)、チュンム(忠武)、クワンゲ(廣開)、ポウン(圃隠)、ケベク(階伯)、ウィアム(義菴)、チュンジャン(忠壮)、チュチェ(主体)、サミル(三一)、ユシン(庚信)、チェヨン(崔瑩)、ヨンゲ(淵蓋)、ウルチ(乙支)、ムンム(文武)、ソサン(西山)、セジョン(世宗)、トンイル(統一)という朝鮮半島の歴史に因んだ名前を持つ24個の形が存在します。

 一方、WTFテコンドーにはテグイルジャン(太極一章)~テグパルジャン(太極八章)、コリョ(高麗)、クムガン(金剛)、テベク(太白)、ピョンウォン(ピョンウォン)、シプチン(十進)、チョンクォン(天拳)、チテ(地跆)、ハンス(漢水)、イルリョ(一如)という朝鮮半島の地名に因んだ17個の形が存在し、この他にビガクやヒムチョリなどの競技用の新しい形が存在しています。

 この二つの流派では全く型の重複が起こらないと言う事も特筆すべき点だと思います。空手でも流派が異なれば、練習する型が違う事が多いのですが、松濤館流空手の鉄騎は他流派ではナイファンチと呼ばれている等、別の流派であっても型の一部分は重複しています。しかし、ITFとWTFの二つのテコンドーでは名称が違うだけで中身が同じ型というのも存在せず、両流派で合わせると全く異なる41個の形が存在している状態になります。ではなぜ、このような現象が起こってしまったのでしょうか?

ITFテコンドーの形の起源~蒼軒流唐手道~

 1959年に当時存在した韓国九大道場の内の一つ青濤館が発行したテコンドー教本の中には以下の 3 つの流派がテコンドー型として載せられていました。

小林流:太極(1 型~3 型)、平安(1 型~5 型)、拔塞(大・小)、観空、 燕飛、岩鶴
昭霊流:鉄騎(1 型~3 型)、十手、半月、慈恩
蒼軒流:花郞、忠武、乙支、三一、忠壯 

 このうち、小林流と昭霊流というのは空手道の流派であり、この型がそのまま空手道で修練されている型である事が分かる。特に名称が松濤館流と呼ばれる空手の形の名称と一致しています。青濤館の初代館長である李元国館長は日本統治時代に日本の中央大学に留学しており、中央大学在学中に船越義珍より空手を学んだと言われています。最終的に四段の段位を得ていた事が記録として残っていますから、これらの二つの流派は松濤館空手から持ってきた物だと推測されます。

 しかし、三つ目の流派である蒼軒流の形は松濤館空手には存在しない形です。蒼軒とは青濤館の分館であり、九大道場の一つである吾道館の館長、崔泓熙陸軍少将の雅号であり、崔泓熙将軍が軍隊内で広めていた唐手道が蒼軒流唐手でした。崔将軍も日本統治時代に中央大学に留学しており松濤館空手二段の段位を習得していましたが、崔将軍自身は朝鮮民族の独自武道としての空手を模索し独自の流派を作り上げ、1955年に自らが作り上げた武道にテコンドーという名前を付けました。崔将軍は国際テコンドー連盟を立ち上げ、自らが作った武術を国際的に広めていきました。

WTFテコンドーの形の起源~跆手道(テスドー)~

 崔泓熙将軍がテコンドーという名称を使い始めた頃、韓国九大道場の館長たちの中には反発の意思を示す人は少なくありませんでした。武徳館の黄琦は唐手道を、松武館の盧秉直、彰武館の尹炳仁、智道館の李鐘祐などは空手道を主張して反対をしていました。

 しかし、当時の崔将軍は李承晩大統領と国軍を背景にした大きな権力を持っていたため、民間の組織の及ばない大きな影響力をもって大韓テコンドー協会を設立し、韓国国内の空手道場を併呑して行きました。特に「倭色」と呼ばれる日本文化を排除していた当時の韓国国内では日本文化である空手をそのままの名称で修練する事に対する厳しさもあったものと考えられます。

 1961年にクーデターによって李承晩大統領が失脚し、朴正煕政権の時代になると崔将軍自身も朴大統領との対立により軍職を退きました。これにより、崔将軍が今まで通りの権力を持てなくなり、大韓テコンドー協会の名称がテコンドーの「跆」と空手道の「手」を合わせて跆手道という名称を使う様になりました。この大韓跆手道協会が行った初めての昇段審査では、

【初段】 平安5段、鉄騎初段、内歩進初段、慈院、[花朗]
【二段】 抜塞大、鉄騎二段、内歩進ニ段、騎馬ニ段、[忠武]
【三段】 十手、抜塞、燕飛、短拳、鷺牌、[階伯]、[乙支]
【四段】鉄騎三段、内歩進三段、騎馬三段、慈恩、鎮手、岩鶴、鎮東、長拳、[三一]
【五段】 公相公、観空、五十四歩、一三、半月、八騎拳

上述されるような型を審査対象としていたと言われています。ほとんどが空手の形ですが、彰武館の尹炳仁が満洲で学んだ拳法の形も含まれており、[ ]で囲んだ形はのちのITFテコンドーへと引き継がれていく崔将軍オリジナルの形でした。

 1965年にマレーシア大使から帰国した崔泓熙将軍は大韓テスドー協会の会長に就任すると、名称を大韓テコンドー協会に戻しました。この頃の大韓テコンドー協会は日本の空手からの脱却を図っている時期であり、崔泓熙将軍は自らが作った蒼軒流の形を他の道場にも広めていきたいと考えて居ました。しかし、満州で拳法を修めた後に遠山寛賢の高弟となり錬武会空手の5段だった尹炳仁など、当時の各道場の館長はこれと対立していったと考えられています。1967年には大韓テコンドー協会の名義でパルゲイルジャン(八卦一章)~パルゲパルジャン(八卦八章)、コリョ(高麗)~一如(イルリョ)までの一七個の形を制定しました。1961年の昇段審査で用いられた形は蒼軒流を含めて全て排除され、全く新しい17個の形がここで制定されました。

 一方で、1965年に崔泓熙将軍は海外の弟子達を中心に9か国の承認を得て国際テコンドー協会(ITF)を設立。初代総裁に就任し、海外に向けて自らが作った蒼軒流のテコンドーを広めていく体制を整えました。更に1972年に東ベルリン事件が原因で韓国からカナダへ亡命すると、韓国国内の大韓テコンドー協会は世界テコンドー連盟を立ち上げ、二大流派の分裂が決定的なものとなってしまいました。

 以降、韓国国内ではWTFテコンドーの流派が主流となり、1975年にはパルゲ(八卦)から現在まで知られているテグ(太極)と入れ替えると、現在までWTFテコンドーで伝えられる形が作られました。

 更に翌1976年には九大道場の名称を廃止し、1館・松武館、2 館・韓武館、3 館・蒼武館、4 館・武徳館、5 館・吾道館、6 館・講徳院、7 館・正道館、8  館・智道館、9 館・青濤館、さらに武徳館を脱退した人が設けた 10 館・管理館と最終的に1978年の道場統合に向けて動き出し、国内のテコンドー(WTFテコンドー)を一つにまとめる様に動きました。

まとめ

・ 1959年にはテコンドーの型は大きく分けて空手の形と蒼軒流のオリジナル形の二種類があった。
・ 前者が変形した物がWTFテコンドーの形であり、後者が発展したものがITFテコンドーの形である。
・ テコンドーと言う同一の名称を用いているが、ITFとWTFはそもそも最初から統合された武術ですらなかった。