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540°キックと猫ひねり問題と「蜘蛛の糸」論争

 多分、テコンドーを始めたばかりの人の多くがあこがれる蹴りに540度蹴りという蹴りがあります。

 上の動画はジャパンテコンドースクールの金休植国際師範の540度蹴りで、15年くらい前にニコニコ動画で滅茶苦茶バズりました。

 この蹴りを蹴れるようになる為のコツとして物理学の視点から一般的に即答できるポイントは主に2つあります。

・初速度の垂直成分を増やすことで、高く飛んで滞空時間を増やす事。(鉛直投げ上げの落下時間$${t=\frac{2v_0}{g}}$$が初速度と比例する事による)
・角運動量を増やすことで、短時間で回り切る事。
(空中では重心を通る回転軸周りで角運動量保存の法則が成り立つ事による)

 しかし、これは人体を剛体(形を変えない物体)とみなしており、これだけをもって考える事は適切ではありません。人体は動作の途中で幾らでも形を変えてしまうのです。

 実は物理学を学んだ人間が、物理法則に囚われて現実を直視できなくなる例は少なくありません。例えば、背中から落ちる猫が何故か足から着地できるという「猫ひねり問題」も当初は物理学者達は「角運動量保存に反するから無理である」と一蹴していました。
 しかし、猫は剛体ではなく変形することが出来る物体です。
 やがて、連続写真などを元にして猫が上半身と下半身をそれぞれ別々に捻る事で、身体全体の持つ角運動量とは逆向きの角運動量を作り出し、角運動量保存は成り立つ(角運動量の合計が0になる)にも関わらず回転して着地できるということが発見されました。

 テコンドーを物理学的に考えるとき、取り扱う人体は猫と同様に剛体ではありません。したがって、剛体の物理学に対する常識を疑って考えなければならないこともあります。

 以前、2016年に長崎大学の後藤先生が以下のようなコラムを日本物理学会誌に掲載されたことがありました。

 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説に地獄に落ちた悪人のカンダタが天国へと続く蜘蛛の糸を登っていくシーンがある。物理教員が集まった飲み会の席で「カンダタに対して重力に逆らった向きに仕事をするのは糸の張力と筋力のどちらか?」という与太話をすると、物理教員の間でも「筋力」と答えてしまうことがある。しかし、実際には「糸の張力」によるものである。

という内容のコラムです。カンダタの重心系に対して運動方程式を立てると、上向きを正、張力をTとして、

$$
ma=T-mg
$$

と書けるので、上向きに加速度を生じさせる原因は糸の張力Tであり、これを距離で積分することで仕事が求められます。筋力はあくまでも内力であって、その作用も反作用もどちらもカンダタ自身に働く力であり打ち消しあってゼロになるので仕事のしようがないだろうというのが論旨です。

あえて、筋力をFとして運動方程式に組み込めば、

$$
ma=T-mg+F-F
$$

となる訳ですから、筋力は仕事をすることが出来ません。

 これは確かに事実です。筋力(ここでは筋収縮によって筋肉が骨格を引く力を指す)では重心の運動の様子を変化させることは出来ません。カンダタを質点(質量を持った点)や剛体(変形しない物体)とみなすならば、その理論は正しいのです

 しかし、カンダタを剛体や質点として考えない場合はどうでしょうか
どうでしょうか? 変形する物体においては筋力のする仕事は無視できません。

 例えば、フィギュアスケートの回転ジャンプ中の選手の角運動量は保存しますが、回転エネルギーは増加します(詳しくは以前書いた下のノートをご覧ください)。
 仕事とはエネルギーのことではなく、エネルギーの移動のことを指した用語ですから、この時に回転エネルギーの増加分だけ仕事をされた事になります。この仕事をしたのは重力でも空気抵抗でも遠心力でもなんでもなく、筋力なのです。

 人体に関して力学的エネルギー保存の法則を適用して武術の動作原理を説明しようとする本が少なからずありますが、筋収縮により身体の変形が伴えば、それに伴って筋肉に蓄えられた化学エネルギー由来の力学的エネルギーは増減します。
 より良い蹴りを蹴る為に物理学の力を借りようとしたとき、筋力による仕事は決して無視できない所か、寧ろそれこそがスポーツ動作をスポーツ動作たらしめている訳です。

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