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1945年3月 仏印武力処理(明号作戦)後の小磯内閣声明文

 先日の記事1945年4月チャン・チョン・キム内閣宣告文の中に、この文章がありました。⇩

 「乙酉年2月25日(陽暦1945年3月9日)、大日本国軍隊は全インドシナ領土に於けるフランス人の主権を打倒した。その後には今上皇帝がベトナムの独立を宣言し、それと同時に小磯首相が、日本は我が国を侵略する意志無しと連絡をして来た。
 それによって、80年続いた圧制が終わり、我が国は自主権と東アジアの一角の文明国としての立場を恢復した。」

 この⇧「…同時に小磯首相が、日本は我が国を侵略する意志無しと連絡をして来た。」
 
の、『小磯内閣』とは、陸軍予備役大将小磯國昭第41代内閣総理大臣に任命されて成立した、1944(昭和19)年7月22日~翌年4月7日まで続いた内閣です。(上⇧の写真です。)
 どんな連絡をして来たかというと、これだと思います、小磯内閣による『日本国政府の声明文』。⇩(現代語に補正しました。)

 大日本帝国は、インドシナの共同防衛に関するフランス国との約定に基き、終始一貫印度支那に於けるフランス官憲及び軍隊と協力し、同方面の防衛に当たり来たれるも、選局の推移と共にフランス出先官憲の態度は漸次変更を来し、米英等のインドシナ攻撃に対し共同防衛の実を示ささるに至れり。
 我が代表は、之に対し累次反省を促したるも、遂に其の効なきを以て帝国軍隊は目前に迫れる敵に対しても、単独にインドシナを防衛せざるべからざるに立ち至れり、即ち、帝国軍隊は、インドシナの防衛の為、適性官憲を排除し、我に協力する現地官憲には援助を与え、以て相共に協力して所期の目的を達せんとするものなり。
 以上は、軍事上巳むを得ず取りたる処置にして、且つ之を其の必要最小限に止むるものなり。従って帝国は、何等インドシナに対して領土的企図を有するものに非るは勿論にして、東亜侵略の勢力に対し、其の郷土を防衛せんとするインドシナの住民に対しては有らゆる援助を辞せざるべく、久しきに亘りて弾圧せられたる彼等の民族的独立実現の要望は、
大東亜共同宣言の趣旨に基づき、全幅的に之を支援するものなることを併せてここに声明す。

『ベトナム 1945』内『明号』591頁

 確かに、「従って帝国は、何等インドシナに対して領土的企図を有するものに非るは勿論にして」と書いてあり、これは日本政府の正式発表なので、一応ベトナム側も1945年4月の新政府樹立時の第一声はこれを信じて「同時に小磯首相が、日本は我が国を侵略する意志無しと連絡をして来た」という事実と、その時の素直な気持ちであろう「大日本国が我々を解放してくれたというこの恩を、(中略)絶対に忘れてはならない。」を政府宣告文に盛り込んだのだと思います。
 繰り返しますが、この時点は1945年4月

 しかしです。ここで新政府首相だったチャン・チョン・キム氏の回顧録第一章に書いて有ったこの記述を引っ張り出しますと、⇩

 「日本は、元々東アジアの中の同文同化の一国だったが、後に西欧化し、狡猾な手段を使って帝国主義的の膨張を図り、先ず高麗と満州を征服して、次に中国やヨーロッパ列強に占領された東アジア諸国を侵略しようとした。彼らは、『同盟公辱』の口実と、『被圧迫民族の解放』を大義に掲げたが、実際には利権を独占しようとしていただけだ。そのため、日本が敷く政策は言行不一致で矛盾ばかりの、今日世界に横行する覇道の政策だった。人々を仁義的言辞で自分達の陣地へ引き込めば、その統治は容易になる。しかし、実態は単に利益の為だけであり、大義など何処にもなかった。

 。。。回顧録を書き終えたのが1949年。要するに、ベトナム首相として現地の日本(軍)と直接仕事をし交渉を経て、キム氏が結論に達した対日観では日本のことをこの様に分析しているのです。ここから判る様に、キム氏が盲目的な『親日派』などではなく、逆に冷静な視点に立った『中立派』だったこと、そしてその記述からは、『在日本の日本政府が発する建前』『現地の日本(軍)の存在』には、”実際、結構ズレがあったよ。。”というキム氏の指摘かなぁ。。と深読みして、今日は”或る事柄”を取り上げてそれを深堀りしてみたいと思います。😀😀😀
 
 その”或る事柄”とは、これです。

1,行政の準備
 (仏印武力)処理要綱に、
「武力を行使して仏印を処理し、差し当たり之を軍の管理下に置く」
と示してある。であるから、もし(仏印)総督が日本の要求を拒絶すれば、総督以下首脳者の職務執行を認めないと決めてある以上、軍司令官がインドシナを統治せねばならぬ。

『軍服生活40年の想い出』

 これは⇧、先の記事でご紹介しました第38軍総司令官だった土橋勇逸中将の回顧録『軍服生活40年の想い出』の中の、『明(マ)号作戦』直前の頃の回想です。。
 えーと、、総司令官御自身は、エリート軍人さんらしい”軍令”に忠実なる姿勢で以て、作戦後は「軍司令官がインドシナを統治せねばならぬ。」と理解していたということになりますよね。。。
 それでも、土橋司令官は、⇩

…作戦後の混乱は大禁物である。何の混乱も起こさずスムーズに行政を動かすためには、「今まで通り執務」させて一日と雖も行政をストップさせぬことが肝要である。(中略)
 かような訳で私はフランス人と言わず現地人と言わず課長級以下はそのまま職務に止まらせて置く事が必要と考えたので、そのことを中央部に意見具申して右の文句を入れてもらった。

『軍服生活40年の想い出』

 と、作戦後は日本軍が行政を仕切るのではなく、課長以下は仏印政府にそのまま仕切らせることにした訳ですが、ここで登場させたのが『日本の行政要員』です。⇩

1,行政要員
 前に述べた通り、行政にはあまり頭を使わぬとすれば、行政要員には多くを必要としないし、また多くを望んでも人は居ない。そこで、(日本)大使府の人で満足することにした。
 武力を発動すれば総督以下はおらず、従ってこれと交渉する大使府の仕事はなく、その人々は余る。丁度幸いである。
 が、河村参謀長が大使府と何度か交渉を重ねても、大使府側は曖昧な態度を示して同意しない。その理由として、
(イ)外交官は元々お互いの親善を図るのが任務であるのに、総督府の仕事などに関わっては、(中略)外交官としての仕事にマイナスになる。

(ロ)外交官は行政の仕事に経験がないので適当でない。

…しかしそれは表面上の理由で、裏に何かありそうである。そこで私自身が直接松本大使に当たってみることにしたが、本音は、
「軍に徴用されて司令官というようなことにでもなれば、俸給がうんと減り、独身者ならばともかく、家族を伴って来ているものは食えなくなる。」というものだった。 そこで私は外交官のまま軍の嘱託ということにするとことで大使の同意を得たので、

『軍服生活40年の想い出』

 『松本大使』とは、『松本俊一特命全権大使』のことです。
 その松本大使が、「軍に徴用されて司令官というようなことにでもなれば、俸給がうんと減り、独身者ならばともかく、家族を伴って来ているものは食えなくなる。」って言ったって、、、😅😅😅
 本当なのかなぁ、、、本当でなければちょっと酷い名誉棄損です。💦💦。
 というのは、神谷美保子氏の『ベトナム 1945』にこの様な記述があるからです。⇩

 現地、大使府の新任の松本俊一特命全権大使(1944年11月24日着任。前外務次官)は、その計画(=明(マ)号作戦)に強硬な反対意見を表明した。(中略)
 1944年の11月24日に、松本大使から重光葵外務大臣宛てた左記の電文は、端的に上記の推論を実証している。

「1,目下の情勢では仏印を処理することは不得策である。(中略)
 4,大使府員を軍直属として軍の指揮下に置くことは絶対に避けられたい。」
 (中略)
 また、<明号作戦>実施がすでに決まった1945年の2月10日に、大使府の塚本事務総務長から外務大臣に打電された電文にも、一層大使府の本音が出ている。

 「右の如くなるを以て安南等の独立を以て大義名分を立てんとする我方の意図は完全に封せられ、(中略)殊にその衝に当たれる我々大使府員を軍政要員たらしむるに至りては、(大日本)帝国外交が名実共に欺瞞なりしことを実証するものと云はざるべからず。」

『ベトナム 1945』

 在仏印大使府は、外務大臣への打電で、『大使府員を軍直属として軍の指揮下に置くこと』や、『大使府員を軍政要員たらしむる』ことを拒否してます。現地のベトナム人の間でも、日本の『安南等の独立の大義名分』など見透かしてますよ、と、そして、大使府が軍属になって軍政要員にでもされたら『我方の意図帝国外交が名実共に欺瞞なりしことを実証するもの』ですよ、と再三に亘って警報を鳴らしていた。。。そして、この現地の状況は上記キム氏の回顧録の説明とピタリと符合しています。。。😑😑

 それに、そうですよね、現地の軍総司令官である土橋中将が、
 「(仏印武力)処理要綱に、「武力を行使して仏印を処理し、差し当たり之を軍の管理下に置く」と示してある。であるから、(中略)軍司令官がインドシナを統治せねばならぬ。」
 
と、作戦後の日本軍司令官(自分)=インドシナ総督(仮)だと理解してるのだ。。。と判れば、外交官なら誰でも焦る💦💦。。(笑)

 それがです、軍部が立てた『仏印武力処理=明号作戦』のシナリオ内の大立役者の配役には、実は外交官である『松本大使』へ白羽の矢を立ててました。⇩

 奇襲作戦の開始は、9日の夜9時(現地時間、以下同じ)に開始することになっており、調印式は9日午後6時という、外交慣例から考えるとこれ以上遅い時間は考えられない時間を提案して、受け入れられていた。
 調印式は6時半頃終わり(軍司令官は15分位で中座し、軍司令部で待機していた)、最終回答を用意する2時間をフランス側に与える為に、7時まで交渉を継続させねばならず、松本は必至に会話の継続に努めた。
 …7時になると、突然大使は仮面をかなぐり捨て、共同防衛協定の強化を提案し、総督が(中略)反対だと言うと、大使は同夜9時までの返事を要求した。(中略)回答のタイム・リミットは9時であることを告げて、8時15分頃軍司令部に引き揚げた。その時には、総督官邸の周囲はすでに日本軍に包囲されていた。(中略)
 隣室に案内されたロバン大佐の回答書を読んだ松本大使が「これはまさしく拒絶だ」と叫ぶのが、廊下の外まで聞こえた。

『ベトナム  1945』

  とこの様に、これが『交渉決裂』軍事処理開始の合図という軍部の書いたシナリオでしたが、そのシナリオの前半部分の主役級を務めてくれたのが松本大使だった訳です。。。此の事を『ベトナム 1945』には、⇩

 「いずれにしても、<明号作戦>実施のための外交交渉は、作戦実施の方向へ持っていくための手段に過ぎなかったという点、大使は単なる演技者で軍司令官が全権を握っていたという点で、大使にとって屈辱的な交渉であったということになろうが松本大使はこの任務をタフにやってのけ、」

 とあるので、あれ程、軍部の下で働かされるのは嫌だと拒否していたにも拘らず、いざ挙国一致でやると決まったからには、御国の為に与えられた任務を黙々と遂行し、見事やってくれた松本大使でした。
 そして、その後に、⇩

 「…松本大使はこの任務をタフにやってのけ、その後辞任を申し出る。」

 。。。あれ、オカシイですよね、、🤔🤔🤔🤔

 上⇧で、土橋中将は回想録の中で、
 「『軍に徴用されて司令官というようなことにでもなれば、俸給がうんと減り、独身者ならばともかく、家族を伴って来ているものは食えなくなる。』
というものだった。
 そこで私は外交官のまま軍の嘱託ということにするとことで大使の同意を得た

 この様に、松本大使が本音をぶちまけた、と書いてますケド、、、
 ハッキリ言って、、、アジア解放の戦いの一貫で『特命全権大使』として仏印に赴任して来た外交官の松本大使が、時代劇の越後屋ヨロシク『へへ、、旦那、いい所に気が付きやしたね。。」とばかりに、こんな下世話な腹の内を総司令官に打ち明けるでしょうか、、、。(笑)
 常識的、状況的に言って、ちょっと考え難いですよねぇ。。😂😂

 もし100歩譲って土橋中将の言う通り『家族を養えればそれで良し』と言って、果たして要求通り『外交官のまま軍の嘱託』となり要求が通った(?)のに、作戦終了後に速攻で辞任してるとか。。。
 そもそも土橋中将は、そんな腹割って本音を直ぐに話して貰える程、外務官僚と仲良かったの?と疑問の目を向けて今一度回想録を深読みしてみますと、、、⇩

 「 1,行政要員
 *行政にはあまり頭を使わぬ、多くを必要としない、
  ⇒そこで、(日本)大使府の人で間に合わす。
 *武力を発動すれば大使府の仕事はない
  ⇒ 奴らは閑だから、使うに幸い。」

 こっ、こんな失礼なこと回想録に書いてたのか。。(笑)

 さて、長くなりましたので、私の結論(自論)を言いたいと思います。。。😅😅

*第38軍の総司令官として仏印へ赴任間もない土橋勇逸中将は、「軍司令官がインドシナを統治せねばならぬ」と認識していた。
*その時自分の下に『行政要員』として大使府の外交官たちを組み入れようと考えていた。
*一方、大使府松本大使たちは、現地では『日本の仏印解放の大義名分』は建前だと疑われ始めている雰囲気もあり、そんな中で外交官が軍部要員として働けば、欺瞞と混乱を生じると拒絶を続け、
*結局は挙国一致の名分の下、『明号作戦』決行に当たっては前半の主役を見事やってのけ、そして作戦終了後は、軍部下で『行政要員』として太鼓持ちの伝書鳩に徹すること潔しとせず、スパッと辞任した。。。。
 
 どうも、そんな経緯じゃないかと思います。。。あくまでも、一暇人主婦の推論ですが、、😅😅😅

 結論的に『明号作戦』は、松本大使のご活躍もあり大成功で、其の時の在仏印総司令官だった土橋勇逸中将の御経歴には華々しい『御経歴・御戦功』がまた一つ積み上げられたことになり、御立派な回想録まで後世に残せることになった訳ですから、松本大使には感謝こそすれ恨みを持つ理由などあったのか、、恨んでなかったとしたら、何故に、
 「そこで私自身が直接松本大使に当たってみることにしたが、本音は「軍に徴用されて司令官というようなことにでもなれば、俸給がうんと減り、独身者ならばともかく、家族を伴って来ているものは食えなくなる。」というものだった。

 普通考えて、こんな⇧不名誉なことを自分の回想録にわざわざ書き込むとか。ちょっと理解🤔🤔🤔🤔不能ですよねぇ。。。
 あああーーーー!!もしかして、、、

 ”散々軍部決定に逆らって拒否した挙句、外交官のまま軍の嘱託ということにして作戦後の『行政要員』として軍部で使おうと思ってたのに、速攻で辞任した⇒よくも俺の面子を潰してくれたな、けしからん!”

 とか根に持ってたとか??でしょうかねっ? それで戦後30年以上も経って出版した回想録に、こそっとこんなヘンな如何にも虚飾過多な話を腹いせに書き落としたとか???

 😭😭😨😨😨😭😭😭😭😭😨😨😨😨

 。。。推論ですけど、、
 軍人さんなど、男らしく勇ましい外見とか立派な学歴や肩書をお持ちの方に限って、その男の嫉妬や逆恨みとは、斯くも根深く女々しくも恐ろしいものなのかも知れません。。(笑)

 ***********

 兎に角、やはり軍人さんの回想録の類はその一冊のみからで無く、様々な角度から同時期の多数の方の回想録も併せ読み、状況確認をしながら推論を立てて進まないと見誤ってしまうゾ、、、と再認識した一例を今日はご紹介してみました。。。😊😊😊


 

 

 
 

 

 

 

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