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仏領インドシナの中央銀行『印度支那(インドシナ)銀行』と『通貨発行権』

 堂々と題名に「中央銀行と通貨発行権」と挙げましたけど。。。実は私は経済・金融などが大の苦手のどんぶり勘定主婦でして(笑)💦💦。。
 しかしです、もうお馴染み😅ベトナムの皇子、クオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯」第7章「 支那、泰での奔走」に、このような記述があるのです。

 「庚戌(1910)2月下旬、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は広州へ、私は香港に留まり英語学校へ通いました。 その当時、在香港フランス機関で働くベトナム人で、私が連絡を取っていた誠に心良い人間がいました。彼の名は范心(ファム・タム)。南圻出身の人間で東方匯理銀行(=インドシナ銀行 Banque de I’Indochine)で働いていました。」

 ベトナム語原本には「Ngân Hàng Đông Đương Hối Lý」とあり、これが「東方匯理(かいり)銀行」仏領インドシナにあった「印度支那銀行(Banque de I’Indochine)」だと判るまでに結構時間が掛かりました。。

 クオン・デ候とは、先の記事「ベトナム王国皇子クオン・デ候 最期の帰国声明文 『全越南国民に告ぐ』|何祐子|note」にも書いたように、実際は、非常に聡明で博識な方だったのです。
 第1章「少年時代」でも、敬愛する歴史上の人物に、
 「…ベトナム史の中で、私が最も敬愛する人物は、李常傑(リ・トゥン・キェット)、陳国瓚(チャン・クォッ ク・トアン=陳興道 チャン・フン・ダオ)。中国史では、張良、諸葛亮(=諸葛孔明)、日本史では、楠木正成、豊臣秀吉、吉田松陰、西郷隆盛。西洋史では、カブール、ビスマルク、ワシントン、リンカーン…」
 と、大変な読書家だった様ですし、また第5章「一時、日本を離れる」では、神戸のホテルを出て翌朝の東京行き始発列車を待つ為に市内を歩いていた時を述懐し、
 「…ただ辺りをふらふらして朝の来るのを待ちました。ふらふらと郊外を彷徨う姿は、正に『鶏聲茅店月(けいせい ぼうてんのつき) 人迹板橋霜(じんせき ばんきょうのしも)』 (=鶏の声にせかされ 旅籠屋出れば 茅の屋根には月が残れども、板掛け橋の霜の上に 早くも人の跡が 見えたり)。」
 と、漢詩がさらっと引用されていたり。私は、これが唐代中期の詩人『温庭筠(おん・ていいん)』の詩だと判るまで、これまた結構時間が掛かりました。。。😅😅

 前置きが長くなりましたが、クオン・デ候自伝全篇は、殆ど余分な部分が無く全て意味があり、大事で無い様な小さな事柄でも後で大きく繋がるような構成になっています。この「東方匯理(かいり)銀行」も、きっと何か意味があるに違いないと気になっていました。
 先の記事「戦前古書に見る、ベトナム高原鉄道『達拉(ダ・ラット)線』のこと」でご紹介しました、『満鉄東亜経済調査局』発行『南洋叢書 仏領印度支那篇』から、昭和16年(1941年)頃「印度支那銀行(Banque de I’Indochine)」に関する記述を、本当に簡単に簡単に纏めてみました。。。😅😅😅😅😅

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 「印度支那銀行(Banque de I’Indochine)」は、1875年当領の産業開発を主眼として、フランスに於ける「コントアール・デスコムト」銀行(Comptoir d’Escomte)、「ソシエテ・ゼネラル」銀行(Société Générale)、及び「巴里・和蘭銀行」の合同経営として設立された。
 …当初資本金8百萬フラン、…極東に於けるフランス国の利益を代表する政府機関たるの特質を帯ぶるに至った。…一面特権銀行として財政的にその機能を発揮し、他面産業の開発及び商工業の振興に力を致して順調に発達し、資本金も漸増して現在1億2千萬フラン、諸積立金は1億3千萬フランとなり相当内容あるものとなった。」

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このような⇧銀行ですので、当然、本店は巴里(パリ)、一番上⇧の写真のサイゴンも支店の一つ。他に支店はカントーやハイフォン、カンボジア含め、1930年頃に合計12支店あったそうです。

 この⇧、1930年という年に仏印金融に非常に重要な転換、「新貨幣条例」の施行がありました。要するに、仏領インドシナが、「銀本位制から金本位制へ移行」したのです。

 この頃の世界金融は、前年1929年に株価暴落で世界恐慌突入。日本は丁度「金輸出解禁」した年です。

 1930年迄の仏印は、メキシコ銀(=メキシコ・ピアストル)禁止の1908年から「(フランス)ピアストル貨による単独銀本位制」でした。
 欧州大戦後(1918年)に、植民地の重要性が再認識されて大勢が金本位論に傾いたこともあり、1930年に新貨幣法が施行されたそうです。  
 「金本位制」
になったとは言っても、「純然たる金塊本位制ではあるが、金貨は存在せず、市場にはピアストル銀貨が代表貨幣として流通するに過ぎない」で、「金ピアストルは、…名目上のもので実際には存在しない」。「…蓋し新制度は純然たる金塊本位制として、実際には金貨の存在を見ないが故である」。
 
要するに…、「金塊本位制」ではあるが、金(ゴールド)は存在せず、流通貨は全て銀(シルバー)やその他補助貨が主役!。。。😅😅

 (*以下は、「新貨幣法」後の銀行定款(1931年3月)から抜粋。)
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1)インドシナ銀行は1920年1月21日(旧発行権満了日)より起算して満50ケ年の存立期間を与えられている。
 
⇒ 計算すると「存立期間」期限は、1971年1月20日。。。

2)営業執行は、…植民地発券銀行として多少の制約を加えられる。
(ハ)…重役はフランス市民たる株主たることを要す。
 …取締役はフランス市民権を享有する者たることを要する。

3)新株式の半額(総株数の20%)は、政府所有とする。その譲渡若しくは売却を禁止し、銀行の発行権が消滅した場合に始めて之を為し得る。

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 さてここで、上述の「銀行券」と「発行権」ですが、 
  中央銀行たる印度支那銀行は、「現在、百ピアストル、20ピアストル、5ピアストル、1ピアストルの4種の兌換券を発行する。」
 
そして、この「印度支那銀行券」は、「仏領インドシナ連邦内に限らず、太平洋仏領諸島仏領印度諸州並びに仏領ソマリ―沿岸州内に無制限通用力を有する。」とあり、結構広い地域で通用力を持たせました。。

 印度支那銀行の発券制度は、「1930年度の貨幣法改革で重要な改正」あり、「銀行券発行の特権」を法律化して更新されました。即ち、
 1)…諸大統領令で、インドシナ銀行に賦与された発行権を1931年3月31日以後25ケ年間延長する。
 ⇒銀行券発行権は、1956年に期限切れます。。。

 2)インドシナ銀行券は、銀行の営業する植民地及び保護領内に於いて、官公金庫及び私人間に、フラン貨として受け入れられる。
 ⇒結構強力な通貨です。。。

 3)銀行券は、…これを発行した支店又は出張所で兌換に応ずる。…協定で特定した支店又は出張所でも兌換を為し得る。
 ⇒結構広い範囲の多様な場所で兌換できます。。。

 (*新貨幣制度は1936年10月フラン切り下げの結果、停止されました。要するにたった6年間の短期間。。。)

 この「発行権」は、「定款」「発行権更新法」「協定書」によってあれこれ拘束されます。
 そういえば先の記事、大南公司の松下光廣氏の昭和34年(1959年)「週刊新潮」のインタビューで、南ベトナム(ベトナム共和国)への戦後賠償に絡んだこんな発言がありました。
 「…さらに戦争中、インドシナ銀行に強制的に発行させたピアストル紙幣は、敗戦後使用禁止になったりして、物資不足からくる被害は厖大なものになる…」

 これ⇧が事実でしたら、ちょっと奇妙だなと思います。。。
日本軍の仏印進駐から敗戦(1940ー45)期間はまだ「発行権」消滅前で、大株主はフランス政府ですね。
銀行の重役はフランス市民たる株主で、取締役はフランス市民権を享有する者ですね。
 当時の外務大臣松岡洋右と、仏国ペタン政権のアンリー大使が『松岡-アンリー協定』を結び日本軍は平和進駐しました。その期間中にインドシナ銀行が発行したピアストル紙幣を、1946年からド・ゴール新政権が使用禁止にしたってことになりますかね。でも、1956年=「発行権期限年」まで政府保有株式の譲渡、売却は禁止ですから大株主はずっとフランス政府でして、加えて「保有準備高」による通貨の「信用」は何処へ。。。
 関係ないのかな、そんなもの。(笑)
 
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 以上、本当に簡単に、金融オンチ主婦😅😅(笑)が少し気になる部分だけを拾ってみました。。。こうして見て見ると、日付は妙に偶然です…。

 「インドシナ銀行に賦与された発行権」は、1956年に期限切れ。
 ⇒ スイスのジュネーブ会議で、第1次インドシナ戦争停戦・南北分断決定(1954)、南部「ベトナム共和国」建国(1955)

 「インドシナ銀行は1920年1月21日(旧発行権満了日)より起算して50ケ年間後の1971年1月20日に存立期間を終了する」
 ⇒
アメリカ国内でも「ベトナム反戦運動」が巻き起こり戦争終結へ。アメリカ経済は多大な損害を出し、1975年アメリカ撤兵、敗戦。  

 一句浮かびました。
「銀行の 発行権消え ぺんぺん草」
😵‍💫

 
 

 

 

 


 

 


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