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『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第9章 香港での受難~

 単身ベトナムへ帰国して後、無事香港へ出国して来たクオン・デ候でしたが、香港は危険な情勢へと様変わりしていました。

 爆弾保管の家宅捜索で逮捕されたベトナム人同志らの消息を訪ねようと、香港警察署へ赴いたクオン・デ候は、逮捕され牢屋に放り込まれてしまいます。
 絶体絶命の窮地でしたが、裁判所が提示した保釈保証金を同志が支払ってくれたお陰で辛くも仮保釈されました。
 このお金は、国許の或る篤志家が香港に居た息子たちに、クオン・デ候の活動資金にと預けていたお金でしたが、どういう訳か保釈金と全く同一金額ありました。クオン・デ候は、”…しみじみ巷の宿命説を熟思黙想させられる…”と語っています。

 この章で興味深いことは、逮捕されたクオン・デ候が、案外しっかりと、当時の香港の逮捕手順や囚人への処遇を観察し、潜入ルポ式に詳細を説明していること。貴族らしからぬ肚の据わった、豪胆で男らしい性格がここにも滲み出ています。
 もう一つ興味深いのは、警察署で、在香港フランス密偵のニュン(Nhung)というベトナム人が、クオン・デ候の顔認証の為に近づいて来た時のことです。
 一瞬の会話で取り引きが成立し、ニュンはクオン・デ候の正体を香港警察にバラしませんでした。クオン・デ候は、” ニュンは将来の為、己の土地台帳を故意的に確保したつもりだろう”と、その理由を説明しています。

 当時まだ帝政だったベトナムは、全土地がベトナム皇帝に属していました。
 要するに、外国資本側の密偵へと寝返った人間には、もう誠意・忠誠心など微塵も無い。あるのはただ虚心に塗れた野心と、己だけ良ければよいという我慾だけ。
 これらのやり取りから判明するのは、将来どちら側に転んでも自分だけは利を得ようと常に頭を回転させ、小狡く立ち回ろうとする同国人の存在が常態化していた当時に於て、クオン・デ候やファン・ボイ・チャウ達の最大の苦悩がここにあったのだとつくづくよく分かります。

 香港警察から在外仮釈放されたクオン・デ候は、直ちにホテル掲示板で上海行の船を確かめ、翌日に香港を脱出しました。

(1913年5月~1913年9月頃)


**第9章 香港での受難**


 危険を冒して帰国したとはいえ、本来の目的だった経済面の方は余り大した成果に繋がらず、逆に政治的な面では、ベトナム本国の同志多数に連絡が付いた事に加え、詳しい国内情報を得ることが出来ました。
 
 香港へ戻る途上、さて国外の各方面 の活動はどんな状況だか一旦見てから今後の活動方針を決定しよう、それと今回の 帰国で国民から献金が2万ドン集まっていたのを知ったから、金額はさして大きくないけれど、これを活動基盤の土台固めに活用しよう、などと考えていました。

 しかし、いざ香港に着くと、あらゆる方面で私に不利な状況になっていたのです。 広東では、支那革命党が失敗に終わり、革命分子弾圧勢力は日増しに膨張していました。

 極めて危険な状況なので、広州のベトナム人同志達は各々バラバラに他所 へ避難していた上、香港では同志数人が逮捕されてしまったのです。
 逮捕されたのは、阮紳賢(グエン・タン・ヒエン)と黄興(フイン・フン)、それと子供2名を連れて南圻から香港へ入国したばかりの同志たち10人でした。

 阮紳賢(別名:會東賢 ホイ・ドン・ヒエン)は、南圻の芹苴(カントー)出身。数年前に、国内で日本留学生募集を目的とした『勧遊学会』を設立したかどでフラン スに指名手配され国外脱出します。
 脱出は、南圻河辺から小舟を漕いで高棉(カオ メン=現在のカンボジア)まで着いて、そしてシャム(=タイ)へ入国したのです。
 一年バンコックに住んだ後に広東、香港に渡り、上海と杭州各地の同志間の連絡を取っていました。

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