クロード・レヴィ=ストロース「今日のトーテミスム」

 トーテムとは、Wikipediaで調べると「トーテム(英語: totem)とは、特定の集団や人物、「部族」や「血縁(血統)」に宗教的に結び付けられた野生の動物や植物などの象徴のこと。」とのこと。

 分かりやすいように例えていうなら、プロ野球チームにおける「虎」とか「ツバメ」とか「竜」のことだろう。
プロ野球を「文化人類学的」に解釈するなら「虎や竜や巨人などのトーテムを掲げる集団が、ボールやバットを使った祭祀を行い、勝ち負けを競う。祭祀への参加者以外に観衆がおり、彼らも自らの『部族』のトーテムを掲げ、様々な掛け声を行う」、と。

 トーテムを「信仰」する「トーテミズム」は世界各国の未開民族で見られる。多くの学者がフィールドワークを行い、「トーテミズム」に関するデータを収集した。
 だが、調査を行なっていく中で「トーテミズム」とは何か、次第に分からなくなっていった。ポリネシアと北米、アフリカでは、当然のことながらトーテミズムの体系は異なっている。共通する部分もあるが、異なる部分も多い。
ちょうど「兄弟」や「いとこ」の顔が、パッと見は似ているけれども、顔の部品のどこが似ているかはそれぞれ異なるように。

 つまり、「トーテミズム」という言葉が、よく分からない信仰体系を何でも放り込んでしまえるゴミ箱と化している可能性が高まってきた。
 そのため、人類学者の一部は「トーテミズムは存在しない。あるのは、各民族個別の信仰体系だけだ」と考えるようになった。

レヴィ=ストロースによる批判

 「今日のトーテミスム」はこのような状況に対する批判として書かれたようだ。書かれたようだ、という曖昧な書き方しか出来ないのは、一読しただけでは理解が困難な書物で、最後まで読んでも、頭の中のクエスチョンが消えなかったからだ。
 だから、私が理解した限りでの簡単な論旨を書くしかない。

私たちの振る舞いは、社会の中における「位置」によって決まる

  少しまわり道になるが、この思想を頭の中に入れていないと、この書物の理解ができない。
 例えば、ある人が会社員だったとする。朝起きて、彼はいきなり小学校に登校したりはしない。
 朝起きたら食事をして、身支度をして、ネクタイを締めて会社に向かう。会社で本を読んだりはしない。机に向かって事務をしたり、営業に出かけたりする。
 また例えば、ある人がラーメン屋だったとする。彼は、朝早く起きてラーメンの仕込みを開始する。店が開店したら、猛烈な勢いで客を捌き、ラーメンを手早く作る。いきなり会社に出勤したりはしない。
 我々には自由意志がある。だから、会社員がいきなり小学校に登校することは可能だ。だが、それはしない。
 彼は、社会の中で「会社員」という位置にいるからだ。「男」という位置にもおり、「30代」という位置にもいる。
 結局、我々のほとんどの振る舞いは「社会における位置」によって決まってしまう。
 この傾向は未開民族においてさらに大きい。「男」であること「若者」であること、「鳥の氏族」ではなく、「モグラの氏族に属すること」…だから、結婚相手は「鳥の氏族」から選ばなくてはならず、狩に出かけなくてはならず、母方のオジには特別の敬意を払わなくてはならない、というように。

トーテムとは比喩

ここから、架空の民族に登場してもらう。 
ある民族において、二つの集団「鷲の氏族」と「モグラの氏族」があるとする。「鷲」の氏族は高原に住み、「モグラ」の氏族は谷に住む。この、住んでいる場所が「彼らの社会的な位置」を構成する一つの条件だ。

 では何故、一方が「鷲」で、もう一方が「モグラ」なのか。
 鷲は空を飛ぶ…つまりモグラより高いところにいる。モグラは地面に潜る…つまり鷲より低いところにいる。
だから、高原に居住する氏族は鷲に、谷に住む氏族はモグラのトーテムを掲げていたのだ。多分、比較対象が「森に住む氏族」であったなら、もっと違うトーテムが掲げられたかもしれない。
つまり、トーテムとは人間集団につけられた「喩え」…比喩なのだ!

そもそも言葉を通して世界を捉えることは「比喩化」することなのかもしれない

 トーテムに限らず、私たちの言葉は「比喩」であふれている。
例えば、私たちは「電気が流れる」と言う。これは「水が流れる」という言葉から連想された比喩が、比喩であることを忘れられて定着したものなのではないか。そもそも全く違った物理現象なのに、同じ動詞が使われる。
 あるいは「コンピュータが考える」と「羽生善治先生が考える」。コンピュータ内で起こっていることと人間の脳内で起こっていることは全く別の現象なのに、同じ動詞が使われている。これも、比喩だろう。
 「(将棋において)駒が捌ける」と「魚を捌く」、「ジャムが煮詰まる」と「悩んでしまって煮詰まっている」、全然違う現象なのに、比喩という道具を使えば、同じ言葉で表現できてしまう。
 言葉の世界は比喩で満ち溢れている。

 トーテミズムもそうした比喩の一種なのだと、レヴィ・ストロースは言っているように思う。
 世界の様々な信仰体系が「トーテミズム」というくくりに放り込まれてしまったのは、「比喩」が、どんな民族にも(多分)存在していて、「氏族」を動物に喩えるということが簡単に行えるからかもしれない。
 そして、どんな動物に喩えられるかは、当該氏族の社会における位置から、自然界におけるある動物の位置が連想されるからなのだ。
 私たちが、「貴族階級」をライオンに喩え、「労働者階級」を草食動物や植物に喩えるようなことを、しばしばするように。

 それにしても、「今日のトーテミスム」を一読しただけでは「トーテミズム」が何なのか分からない。もっと本を読む必要がありそうだ。
 レヴィ=ストロースの文章は冗長で、結論が見えないことが多い。多分それは、未開社会が複雑で、「受験参考書」のように図式化することが出来ないからだろう。

さて、次は「野生の思考」を読もう。

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