無題1


何者でもなくていいんじゃないかと思った。
「今、家を出て目的地に向かっている私が、目的地に着くための途中経過を生きる者として」存在するのでなくて、もっと何者でもなくていい。「今この瞬間、ただ歩くことだけを使命にしている、歩く生きものの主」として存在していていいのではないか、だってなににせよ今やることは歩くのみではないかと思った。そうやって存在することを迷惑がる輩は、いるとしても私だけなのだ。
あくまでも歩く生きものとして、なるべく片手間に思考するよう努めながらフリスクを口に放ったら、甘かった。それからすぐに口内全域に発生したつめたさは唾液と混ざって喉付近に流れ、私がぴりっとしたことに気づいたとき、辛味に変わる。こんなにもフリスクを味わい尽くしたことって私の人生史上あっただろうか?
その瞬間の私は、口に侵入した異物をただ感じるためだけの生きもの、に代わって存在していた。
お役目を終えた後、喉にダイレクトに清涼感のような痛みのようなものがぶつかって数回むせた。辛味は痛覚から感じるらしい。鼻から大きく息を吸い込むと、秋の緑の香りがした。
もっと何者でもなくなってみよう、歩くこと以前に、息を吸うことだけが使命の、息を吸う生きもの。呼吸すること以前に、存在することだけが使命の、存在する生きもの。背筋を伸ばした。また歩いた。


インスピレーションにおひとり様専用カフェまで誘導されたので、身を任せて運ばれることにした。
今日は日曜日なので混んでいることは明白だった。カウンター以外の席は埋まっているだろうと予想。いつもなら進んでカウンター席には座らないし、それしか選択肢がないときは中に入らない場合もある。でも今日はカウンターでもいいなと思った。そういう日だった。
扉を開けば案の定混み合っていて、店員さんに「カウンターのお席どうぞ」と伝えられたので中に入って流れるようにその一番奥に座る。あ、なんかとんとん拍子に。
メニュー表をめくると、なんとここはお酒が置いてあるカフェだった。おひとり様専用の。お酒が呑めるカフェ。なんと。と思った。
近頃ウイスキーにはまりかけていたので、ここでウイスキーとちょっとした甘いおつまみを頼んだらおもしろいかな、楽しいかなと思った。ちょっとだけ酔っ払っても、酔っ払わなくても、たぶんおもしろいし楽しい。ソワッとしながらウイスキーの種類、そして飲み方について(ロックとかストレートとか)書いてあるページを凝視する。私は通常飲食店での注文にはたっぷり時間がかかる。
ウイスキーによる若干の二日酔いと異常な眠気で昼まで眠りこけることしかできず、夕方になってやっと家を出る気分になったさっきまでのことを思い出した。はっとした。これは、またの機会にしよう。
注文を終え手持ち無沙汰になって、何となく持ってきた本を開いた。フェリファブ哲学の「自他の境がなくなる感覚と、自浄作用が広がることを人は求めている」という言葉を頭の中で復唱していたら、店員さんが私のためにつくってくれている珈琲の香りがしてきて、少しずつ吸い込んで味わった。
にがい香りがやさしくて豊かで、これは嗅いだことのない匂いだ、と気がついたのは、カウンターに座った恩恵か。それとも、もっとゆるむといい、という意識の後押しが先だろうか。今日は運ばれようと決めたときから、おそらく決まっていたであろう流れ。私はそれを自発的に選んだと思っているし、思っていていい、どうせ。
首の後ろあたりの力がぬけた。肩が自然と下がる。背中がずうんと身体の重みを感じた。少し泣きそうになりながら、薄暗いオレンジ色の空間に身体の輪郭をとかしていく。そのときの、私以外にしていたものと私の境界線がぼやけて、滲んでいく体感は、ある種お酒を飲んだときの感じに似ていて、なにかを誇示しようとしたり守ろうとすることはなくそこにある。


「今にいる」ことはいつでも何者でもないことで、何者でもあれ、ということで、てことは不安定であることだ。
不安定であることを味わいだと、自分に、それ以外に、森羅万象に、身を委ねてゆらゆらと揺られながら微笑むこと。そうすることでしか、世界と友達になれなかった。結果的に。
最初のころ、自分を肯定できるところまで意識的に持っていくことで、自分と仲良くなろうと試みた。ポジティブを決め込むことはネガティブを根強いものにしたらしい。本来の自分ではないものの崇高な部分を自分のどこかに見る、なんとか見る、ことで自分と友達になれると思った。その機会をつくる度に私は私と距離を取っていき、一体になれると思っていた世界と分離して、馴染めると思った環境がいやになった。あっここらで私は麻婆豆腐をいただきますね 
すいません


金欠の時の「ビビッ」はいつもの「ビビッ」とは段違いに「ビビッ」であって、はなから答えは決まっているくせに、「いや〜ねえ〜こんな状況だし〜」とたっぷり数十秒逡巡のポーズを取ったあと、商品をレジへ運ぶときの足取り、ものすごく早い。軽い。いやビビッと来てしまったのだから、絶対に、しょうがない。これは言い訳でも冗談でもなく、しょうがない。


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