存在しないゲイ
SNSで見かけるゲイ達は、いったいこの世界のどこにいるのだろうか?
最近アプリでめっきり足跡が付かなくて、はて、自分のことが見えているのだろうか?という被害妄想に駆られている。
誰彼構わず褒められたいわけではないし、不特定多数と出会いたいわけでもない。
だけど、時々自分がゲイの世界に存在していないような気分になる。
大それたことは求めていないつもりだが、実はそれはとてつもない努力の末に手に入れることが出来るものなのだという気が最近する。
この世で一番難しいことは、地味なゲイが地味なゲイに出会うことだ。
僕は生まれてからずっとゲイだったけど、アプリを始めたのは社会人1年目の3月1日だった。
なんで日付を覚えているのか?
これからゲイとして生きるから、ずっと覚えていられる日にしたのだ。
仕事で、都会のゲイが御免被りたくなるような地方に配属された。
周囲から憐れむ目で見られることもあったが、ただのベッドタウン育ちの僕はとても気に入った。
近くのゲイがすぐに100kmを超えるけど、結構ゲイっているんだなと思った。
その後東京に異動した時は数kmにゲイがうじゃうじゃいた。
最初は凄いなと思ったけど、近所で会えたのなんて数人で、アプリにいる大勢は僕にとっては存在しないゲイだったし、彼らにとっても僕は存在しないゲイだった。
外に出ればゲイかな?って人はたくさん見かけたけど、ただ遠目に眺めていただけで、買い物や風呂でばったり会って話したり、飯を食べに行った地方の頃の方が良かったかもしれないと思った。
ゲイの絶対数が少ないと、互いのあれこれに選り好み出来ない所があって、良い意味で妥協して、それぞれの友人を紹介し合いながら、ゆるい共同体がゆるく広がっていく。
アプリに並ぶほとんどの人を知っていて、会っていた。
階層化された都会のゲイのシステムに僕は馴染めなかった。
人が多ければ多いほど、チャンスがあるだろうと思っていた僕は、早々に自分のおめでたさに気が付いた。
地方にいた時、都会にいた時、地方にいる今。
それぞれの時の年齢によっても感じることは変わってくると思う。
僕は20代の頃、地方にいて、そんな出会い方が出来て良かったと思う。
僕にとっての寂しさは、ゲイが「いない」ことよりも、「いるのに(自分にとっては)いない」ということから生まれるものだった。
最近、家を買ったとか、同居したとか、ペットと暮らし始めたとかっていう誰かの噂を聞いて、人生あがりだなって誰かが言っていた。
そんなことで人生ってあがれるのかな?
僕は満足出来そうにもないけど、自分にはどんなあがり方が出来るのだろうかと思う。
果てしなくないはずの日常が、果てしなく感じてしまう。
自分が存在していないような世界で、自分が存在している理由を探し続けている。
理由なき世界で、理由を探す。
自分が超絶こじつけ野郎だったり、超絶脳内お花畑野郎だったら、もっとハッピーだっただろうと思う。
いや、そんな風にはなりたくないかな。
そう思える程度には、僕は自分を受け入れられている。
ハッピーバースデー、ゲイの俺。
10歳、おめでとう。
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