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こっち向いてた向井くん

今年の冬の底の頃。
映画『エゴイスト』を見に行っていたけれど、それをnoteに書いていなかった。

書いていなかったではなく、自分の中のまとまりがなくて書けなかった、のか。



珍しく一人で観に行かず、その頃アプリで出会った男2人とそれぞれ観に行った。

2人ともそれなりに好みだったが、自分から押すほどでもなく、1人はやり取りも途絶え、もう1人は転勤して行った。

僕には、愛も恋もない。



『こっち向いてよ向井くん』最終話を観ていたら、『エゴイスト』が思い出された。
それは向井君のこんな台詞から。

恋愛感情ってさ、よく考えるとすっげー一方的なわがままなもんだなと思ってきちゃって。
だって相手に自分の気持ちを伝えるのって、実は相手からしたら何かしらの答えを強制的に求められてることになるんだなって。
それって、結構相手に負担をかける行為だよなって。 

自分の気持ちを言い当てられた気がして、でもよく考えるとそうでもないなと思い直す。

最終話の向井君は、坂井戸さんへの気持ちを言うか言わないかで悩むわけだけど、こう考えてる時点で全然わがままではない。

転勤して行った男からは、最終話の向井君のように軽いジャブを入れられていたのだが、僕はそれに気付かないポーズをしながら躱していた。


いつの間にか、一人が一番楽になっちゃったんだよね。

友達を失ったって、恋を失ったって、ただ生きていけばいいだけ。昨日と同じ様に、何も変わらない明日を。

割り切りと諦念ばかりが上手くなる。何かに絶望したって明日が来ることを学んでしまった。

最終話でも、こんな諦めの気持ちと自分の気持ちがせめぎ合う。

だって大人って色々大変じゃん。子どもの頃のように無邪気にはいられない。

恋愛迷子の迷子の理由。
それは、社会、制度、世間の価値観、そんなものが自分の気持ちを見えなくさせるからなのかもしれない。

自分の気持ちが分からないから、相手とも向き合えない。

そこで向井君はこう。

相手が何を望んでいるのか、どう思っているのか、ちゃんと相手の方を向いていなかった。

自分と考えや価値観が違っても、全部分かりきらなくても、違うんだってことを理解して向き合っていきたいんだ。


物語の前半で向井君を振った女性達。
ドラマでは向井君のズレやしくじりが強調されていたけど、よく考えればこの女性達も、自分の気持ち先行型で、結局向井君とちゃんと向き合ってなかったよなと思う。

そして、向井君は、相手も気持ちを考えて合わせたり、時には厳しいことを言ったりしていた。

だから実は向井君、しくじってなんかいなくて、ちゃんと相手と向き合ってたんだなと。

「こっち向いてよ向井くん」じゃなくて、「こっち向いてた向井くん」だよ。



向井君の恋は全然エゴじゃない。

『エゴイスト』では悲しい結末に引っ張られて、なかなか消化出来なかった愛かエゴか問題の一つの答えが、提示されたような気がする。



振り返れば、向井君と坂井戸さん、考え方が違っても、ちゃんと意見を交わすことが多かった。

最終話でも、無邪気にいられないという向井君に対して坂井戸さんは、楽しいことも増えている、と言う。

価値観が同じ、というのは心地よいものだけど、こういう片方がマイナスっぽい時に、もう片方がプラスに捉えられる、ちょうどいい凹凸関係は魅力的だなと思った。



そして、ドラマはエンディングへ。

本当は、幸せってゴールはどこにもないのかもしれない。

ゴールはどこなのか。誰かが決めてくれたら楽だなって思っちゃうこともあるけど、やっぱり自分で決めた道を、時には一人で、時には誰かと一緒に進んでいこう。

ありきたりっちゃ、ありきたりの答えだけど。

でも、時には一人で、時には誰かと、にはどんな生き方も肯定するこのドラマのミソが含まれているように思える。

最終話でもこんな台詞があった。

子どもがいれば親の立場でもう一度全部体験出来るの、めっちゃ嬉しくない?

皆んなそれぞれの世界で一人前の大人として頑張って、そして皆んなそれぞれ自分の家に帰っていく。

男女が行き着く先は結局恋愛しかないって言われてるみたいで、なんかちょっと悲しいよね。

幸せは人それぞれだって言うのは簡単だけど、実際そうも啖呵を切れなかったりする。
誰かの選択する生き方が、誰かの選択した生き方を否定するものではないのだけれど。

そして、このドラマはもう一つその先にも仕掛けてくれた。

幸せというゴールはないし、幸せがゴールでもない。それが向井君の母親の台詞。

今日が幸せでも、明日は何かに悩んでいるかもしれない。それが人生よ。

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