人生のフィナーレ

最近より一層つよく自らの死について考えるようになった。
といっても別にネガティブな要素ではなく、今後や将来のことについて考える延長線上でたどり着いたことであって、むしろどこか前向きな要素も孕んでいる。
老いて身体が思うように動かなくなっていく自分、食が細くなり(今から想像しづらいが)やせ細っていく自分、遂に死の淵に立たされ下顎呼吸でさえままならなくなっていく自分、臨終する自分、棺の中の自分、斎場で炉に入れられ焼かれる自分、骨として参列者順々に上げられる自分の姿等々。。。

あくまでも上の例は私がこれまで身内や知人界隈で実際に目の当たりにしたパターンの一例に過ぎない。
もしかしたら今日この後、道で車両に撥ねられたり、ある日突然暴漢に襲われたり、道で野垂れ死んだり、集合住宅の一室で孤独に遂げたり、追い詰められて自ら選択せざるを得ない状況になったり…と突然現世との別れをしなければならなくなるかもしれない。
そう考えると上の例は、周囲に存在を認められた上で精いっぱい生き切り温かく送り出された幸せな最期である。(臨終してからは差異はないが)
死ぬ場所があること、見送る人がいるのはとても名誉なことである。

あと何年残されているかわからないが、自分が想像した理想の死に近づけられるよう逆算して日々過ごすのも大事なことだと感じた次第。

以上

#月曜朝から暗くてごめん  
#死生観  
#死  

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