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パウロの教会運営の仕方とコースの実践の間にある類似性について
いま、「キリスト教思想の形成者たち(ハンス・キュンク著)」という本を読んでいます。
この本は、ちょうど1年前の今ごろ2回読み、
とても感銘を受けた本であります。
当時は、
「コースはやめて、キリスト教のほうに行こうかな。
教会に行って、みんなで賛美歌を歌ったりとか、
ちょっと照れそうだけど、楽しそうだし」
と、そんなことさえ思ってました。
でも、結局、コースに戻ってくることになりました。
(その経緯については、いずれ書くかもしれません)
そして、
コースの学びにこの本はいらないかなと思い、
メルカリで処分してしまいました。
でも、
また読みたくなって、最近、メルカリで買い直したのであります。
そして、
パウロの教会運営の考え方を久しぶりに読んだところ、
「これは、まさしく、コースの実践ではないだろうか」
と感じたのであります。
ちょっと長くなりますが、引用してみたいと思います。
すなわちパウロは、(教会における)統合と秩序とを、多様性を否定して平均化することによって打ち立てようとは望まなかったのである。つまり、画一化、ヒエラルキー化、中央集権によって実現しようとは考えなかった。統合と秩序は、むしろ唯一の霊の働きによって保証される、と彼は見ていた。この霊は、それぞれの人にすべてのカリスマ(神から与えられる賜物)を与えるのではなく、それぞれの人にその人独自のカリスマを与える(ここでの規則は、「各自に各自のものを」である)。
そのカリスマとは、それを有する人が自己中心的にではなく、他の人々のために使うことが許されるようなカリスマであり(ここでの規則は、「互いに互いのために」である)、まさに唯一の主の秩序の下において使用すべきカリスマである(ここでの規則は、「主への服従」である)。
自分の信仰をイエスに告白せず、また自分の賜物を共同体のために使おうとしない人間は―それによって霊はバラバラにされてしまうのだがーその霊を神からは得ていない。聖職者が干渉したり精神的に独裁したりするのではなく、お互いへの配慮、認めあうこと、連帯しあうこと、仲間として協調すること、助け合いの関係において相談しあい、意志疎通し、対話することーこれらが、教会生活における神の霊のしるしである。そしてこの神の霊とは、イエス・キリストの霊と同一なのである。
コースの実践というと、「赦し」ばかりが強調されますが、このように、兄弟たちと協力しあうことも、大切な実践なのではないかと思うのであります。
(そもそも、それがコースが筆記されるきっかけとなったわけです)
とはいえ、兄弟たちと協力しあうには、
自我の思考体系ではなく、聖霊の思考体系を選ぶという奇跡(赦し)が必要となるかと思いますので、
結局のところは、「全ては赦し」という言い方でも良いのかもしれません。
でも、わたしの理解しているワプニック解説の「赦し」は、
「肉体ではなく心に戻る」ということが強調されるような気がし、
この世レベル、人間レベルのことが、軽視されがちであるような印象を持っています。
ここに何か、自己中心的な冷たさのようなものを感じてしまうことがあります。
また、JACIMフォーラムでは、統合と秩序を、
パウロとはまったく正反対のやり方、
つまり、多様性を否定し平均化すること(JACIMの教材のみで学んでいる人だけ参加を許可する)で打ち立てようとしているように思います。
また、聖職者(教師)による干渉と精神的な独裁で、まとめあげようとしているように思います。
パウロのやり方とJACIMのやり方では、
イエスの御心にかなっているのは、パウロのやり方のほうではないかと思うのでした。
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