芥川龍之介『舞踏会ほか 大活字本シリーズ』
当然芥川の作品なので彼は没しており、彼に校閲してもらうことができない。彼自身が間違えたか、第一次出版社が間違えたか、青空文庫の底本出版社が間違えたか、青空文庫の編集者が間違えたか、この本の出版社が間違えたか。楽譜ではそういう論議があるが、小説(特に日本の小説)ではそういう議論がほとんどない。自筆原稿も捨てられているだろうし。たとえば「炎」の読み仮名を「ほのう」としているのはどういう訳だろう。旧かなでも「ほのほ」であり、旧かなを新かなにしたとしても間違いであろう。
「舞踏会」の感想・・最終シーンの意味がよく分からない。誰々さんということでしょうとたたみかけられて、いいえその方は誰々です、というやりとりは老嬢が、憧れの海軍士官だったのに、その人の名前も正確に分かっていないということの諧謔性を示しているのだろうか。だとしたら、最初と最後 のシーンを除く途中の読書体験は何の意味もなかったことになる。
「奉教人の死」・・男かと思いきや実は女だったというのは、あっと驚くような仕掛けであり、有力者の娘を孕ませたというのが流言蜚語であったことを間違いないものとする仕掛けであるから、芥川も膝を打ったのではないか。これは「舞踏会」と対比すると、途中の読書が意味が大いにあったとはっきりと分かる作品だと思う。
「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」・・題名が題名だからどうせ最後は竜を斬り殺すんだろ、と考えていると軽やかに予想を裏切られる。むしろ古事記では酒でヤマタノオロチを酔わせるところがミソだったのに、この作品では洞穴の住居でスサノオが酒の誘惑に溺れ、堕落していく様が書かれており、酒が忌むべきものとして書かれている点興味深い。一般読者としてはこれからどうなるか分からない・・で物語を切ることでこの作品が死んだものではなく、生きたものとして動きを持っていることが感じられる。
他二作品については略する。
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