歯磨きと通勤時間の英語学習を“習慣”という概念でまとめるのが気持ち悪い
こんにちは、がとーです。
今年は読書が習慣になりました。その中で、習慣をテーマにした本もいくつか読みました。
おかげで自身をコントロールし、物事を習慣化するのがうまくなった自信があります。
ただ、ここで新たな課題が生まれています。
それは、習慣化したことを、それ以上繰り返す必要がないように感じてしまっている、ということです。
具体的にお話しすると、まず、私は通勤時間の英語学習の習慣化に成功しています。少なくとも半年間は続いていますかね。電車内で英語を聞いていないと違和感があるレベルです。
ただ最近、同じ教材を聞くことに飽きてきてしまっています。口パクでシャドーイングをしているのですが、達成感がなくなってきてしまったんですよね。
以前は聞き取りにくかった発音が明瞭に聞こえるようになることを楽しみにしていたのですが。
教材を変えようかと考えましたが、それはただ通勤時間に英語を聞く、という最低限のことをしているだけで、その習慣が私にとって有益でなくなる気がしてしまい、今のところ変更していません。まだまだ、聞き取れていない文章がありますし。
歯磨きとか、サウナとかは、毎回同じことをしても飽きがこないですし、満足感も変わりません。
読書も毎回異なる知識を得られるので飽きがきません。
英語学習はこれらとは別物に感じます。習慣になった後にプラトーが訪れ、習慣でなくなりそうになります。
通勤時間に英語を聞くこと、それ自体は続けないと気持ち悪い→なのでそれを実施する→一時的にプラトーに達しなかなか成長を感じられずやめたくなる→やめると気持ち悪いからやめられない
のループの中にいます。
歯磨きや通勤時間の英語学習などを、一概に同じ習慣と呼ぶのは難しいな、と思った、最近の電車内での出来事でした。
プラトーを超え次のレベルに達するために、この気持ち悪さと向き合い続けるのは、なかなかきついものがあります。英語を聞くこと自体をやめる、という結果にだけはならないようにしたいところです。
習慣、という概念は、様々な下位概念から構成されているのだな、と感じることができたのはよかったことだと思います。やはり、自身の経験を通してでないとわからないことがたくさんありますね。
今後もインプットだけでなく、アウトプットを通して、自身の新しい感情と出会えればなによりです。
ではまた、次の投稿で。
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