「ありがとう」がほしいよね。
中学生のとき、友達、という距離感でもないクラスメイトからもらった一言が今でも忘れられない。
「ありがとう、がほしいよね」
である。
たしか、修学旅行か何かの旅行で学んだことをグループごとにまとめる、という課題であったはずだ。
その課題はいつ進めてもよく、期間は2週間程度与えられていた。
私は昔から夏休みの宿題を開始1週間ですべて終わらせないと気がすまないタイプで、絶対に最終日まで終わらせることができない日記などに対しては苛立ちを覚えるほどのせっかちである。
当然、この課題についても、早めに終わらせてしまいたいと考えた私は、積極的にグループを取りまとめようとした。
グループのメンバーは同じ考えではなく、ぎりぎりに適当にこなせばいいでしょ、というタイプの集まりであった。
そこで私は、じゃあ適当に先にある程度作っておくよ、と一人でポスターのほとんどを仕上げた。
この時点では、「目の前の課題を処理する」というのが目的であると考え取り組んでいた。
ところが、あの言葉に出会い、目的でなく手段であったことを自覚することになる。
メンバーが昼休みに遊んでいる間に私は課題を手早く終わらせ、教室に戻ってきた彼らに「やっといたよ」というような軽い報告をした。
メンバーからは「わかった」と同じく軽い一言が返ってくる。
一つ片付いたし、次は何をしようかなと考えながら、メンバーから目線を自分の机に移そうとしたその途中に、例のクラスメイトが映った。
明らかに私のことを見ていたので私は視線を止め、不思議そうに彼女を見た。
そこで、
「ありがとう、がほしいよね」
と言われたのだ。
今も思い出すだけで鳥肌が立つほどだ。
当時は急に彼女と私以外の人や机、椅子などが全てぼやけたのを鮮明に覚えている。
言葉が心に刺さる、というのはこうゆうことなのであろう。
私は、課題をこなすことは手段であり、真の目的は感謝されることであることに気づいた。
なぜ彼女が私自身すら気づいていない気持ちを察せたのかはわからない。
理由を聞く余裕もなく、「そうだね」と答え、私は視線を自分の机に移してしまっていた。
物事を効率よくこなすこと自体が好きだとずっと思い込んでいた。
そんな性格だから、成績は学年トップになることもあるぐらいで、目に見える感情のない数字という評価で困ったことがない。
あのタイミングで、ほんとは誰かに認められたい。という気持ちに気づけなかったら今の自分はなかったと思う。
その後、私は真の目的のために少しずつ行動を変えた。
例えば、試験前に授業のノートのまとめを作ってクラスメイトに渡す、などだ。
自身にとって全く苦でないことが、他人のためになり、他人から感謝された私は真の目的を達成することができた。
同時に、クラスメイトとの距離がやや近くなった気がしたのを覚えている。
社会人になった今、ただ仕事をこなすだけでなく、そこに人のどんな気持ちの動きが伴っているかを無意識に捉えられているつもりだ。
感情だけでは仕事の課題を解決できないけれど、感情がないと解決やその先にある成功体験はないと思っている。
さばさばしていた私に人間味を与えてくれた彼女のあの一言に、感謝してもしきれない。
当時の彼女は「ありがとう」という返事がほしかったわけでもないだろうが、
「ほんとうに、ありがとう」
といつか会えたら伝えたい。
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