百鶴軒雑記 #7ジョアンミロ展所感

先日、渋谷BUNKAMURAザ・ミュージアムにて行われたミロ展を拝観した。

ジョアン・ミロは、いつか西嶋慎一先生が「西川先生の『黙然而笑』は、ミロの作品に影響を受けて作成されたものではないか」ということをおしゃっており、それで覚えていた。
これまであまり調べずに来てしまったので、せっかくの機会なので足を運んでみた。

書人として最も親しみを覚えたのは、「MIRO」と書かれた色紙作品である。
これは彼が来日のさい、松丸東魚氏のもとで揮毫し、東魚氏が即興で刻した「美露」の印が押印されている。
単にミロが筆で書いた線というだけでなく、「筆で文字を書く」行為の原点を示しているように思えた。つまり、

・楷書の「トン、スー、トン」のようなリズムは存在せず、ただ素直に線が引かれている
・曲線においては、直線の角度を少しずつ変えながら重ねるような意識で描かれている

...というような、技巧のない自然な筆遣いが見えるのだ。
文字を筆で書くという行為が興ったそのとき、こんな線が書かれていたのではないかと想像した。

また、ミロの作品に時間の流れを感じたことも面白かった。

一般的には、絵画と書には明らかな隔たりがあるとされる。その要素の一つが時間である。

作者の視点から言えば、前者は一枚のキャンバスに、何日も、何度でも筆を重ねる仕事である。
一方後者は、基本的に線は一度で書かれ、何枚も練習し、よく書けた1枚を選ぶというのが殆どではないか。

鑑賞者の視点から言っても、前者は、全体を俯瞰して観たり、中央、左上、右上と、視点を動かす順には決まりがない。
しかし、書の場合「詩や文を読む」という行為によって、視点を右上から左下へ動かすというルールを敢えて与えることがある。

話を戻して、MIROの作品に流れる時間の要素、詩や文字を素材とすることは、彼の作品を語るうえで特筆すべきことだろう。

しかし驚いたのは線の強さである。それは特に曲線において強調される。
たとえば、彼の作品には、人間のようで幾何学的にデフォルメされたキャラクター、
自身の名「MIRO」をはじめとする文字が描きこまれたものが多いのだが、
そのキャラクターの輪郭、あるいは文字の「O」のような曲線表現は、
まるで硬い針金を曲げたような、金属的な表情を見せていた。

書道の展覧会活動をしているとつい、書道展ばかりになってしまう。しかし時には視野を広げてみて、同じ壁面芸術として得られるものがないか、考えてみなければならないと思う。

https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/22_miro/

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