プロレス超人列伝第23回「ゴージャス・ジョージ」
1940年代~1950年代、これはテレビの黄金時代であったといわれている。
日本ではこの時代に力道山が日本の英雄として持てはやされていたが、同じ頃別のレスラーがアメリカを騒がせていた。
その男の名前は「ゴージャス・ジョージ」。
名前からわかるように、ゴージャスな姿を持ち味にしていた。
入場の際にはエルガーの「威風堂々」、そして執事とマネージャーを連れ執事がハンカチをひかないと入場しないというこだわりがあった。
そして、試合の前に観客やレフェリー、対戦相手を侮辱するパフォーマンスを繰り出し観客からのヘイトを買った。
だが、このヘイトの浴び方が全米で人気を集め一躍スターとなったのだった。
ジョージは1915年、ネブラスカ州の田舎町でこの世に生まれる。
その後、2歳のころに両親がネブラスカからテキサスに引っ越した。
そこはかなり治安が悪い地域でジョージは強くなるためにYMCA(キリスト教青年会)でレスリングを学ぶこととなった。
これがきっかけになり、彼はレスラーの道を進むこととなった。
ジョージの家庭は経済状況がよくなく、彼は家族のために高校を中退してプロレスラーになることを選んだ。
その当時、彼はまだ10代であったのだ。
しかし、才能を見出したジョージは1930年代から1940年代にかけてプロレスラーとして大活躍をした。
そして、第二次大戦が終わった1940年代後半…彼の時代が訪れたのだ!
戦争が終わった世界中の人々はテレビに熱中した。
プロレスはこの時代のテレビのキラーコンテンツだった。
開局したばかりのCBSをはじめ、全米各局がテレビをうつした。
そんな中、ひときわ輝く男がいた。
それがゴージャス・ジョージだったのだ!
金髪のカツラと派手な格好、そしてリングを降りれば紳士的なスーツ姿…全米の人々はジョージに注目をした。
この当時はまだWWFが全米マット侵略をするはるかまえのテリトリー制であったため、ヒールであったジョージは全ての地域をドサ周りしながら戦うといったことをしていったのだ。
そう、今現在でもドルフ・ジグラーやコーディ・ローデスなど受け継がれる金髪蒼眼のハンサムだが傲慢なヒールレスラーはこのゴージャス・ジョージこそが始祖でもあったのだ。
そして、彼は「威風堂々」をエントランステーマとして取り入れた。
これは「入場曲」を設定した世界初のレスラーでもあったのだ。
当初、普通のアマチュアレスラーであったジョージにこの貴族のようなキャラクターを提案したのは妻であったそうだ。
今現在ではすべて当たり前のことをジョージは産んだ。
彼のあだ名は「The Toast of the Coast=西海岸の人気者」「The Sensation of the Nation=国民的センセーション」というものだった。
この韻を踏む独自の響きは、なんと今現在のラップやヒップホップに大きな影響を与えたといわれている。
全米はジョージに夢中であった。
だが、そんな状況も長くは続かなかった。
1950年代も半ばを過ぎると、プロレスブームは沈静化をしていった。
徐々に人々はプロレスに興味を失っていった、これはゴージャス・ジョージの衰退も意味をしていた。
やがて、彼が栄光とともに築き上げた富も離婚裁判で多くを失った。
と、同時に彼はアルコール依存症に苦しまれることとなったのだ。
そして、1963年ジョージは48歳という若さでこの世を去った。
最後の試合はなんと覆面レスラーのザ・デストロイヤーと「髪とマスクをかけた試合」というまさに屈辱的なものであった。
かつては全米最大の人気者であったジョージも、見る影を失っていった。
ところが…彼の存在を多くの人は忘れていなかったのだ!
世界的ボクサーのモハメド・アリだ。
彼は少年時代に見たジョージが忘れられなかった。
金髪のサラサラヘアーで周囲を煽るようにバカにするその高貴さ、美しさ、ファッション性が彼には輝いて見えたのだ。
青年に成長したアリはボクサーとなった。
そこでとあるラジオ番組で子供のころの英雄であったゴージャス・ジョージとの共演の話を聞き、興奮していたそうだ。
だが、そこに来たのは彼のフォロワーのフレッド・ブラッシーだった。
しかし彼はここでブラッシーのアグレッシブなマイクパフォーマンスに強い影響を受けた。
それ以降、アリはブラッシーと友人同士になり、アントニオ猪木とあの伝説の試合を行った際にはブラッシーもそばにいたことがあった。
モハメド・アリはブラッシーと記憶の中に残るジョージを頼りに自身のキャラクターを生み出した。
流れるようなパフォーマンスと煽り言葉、そして高価なガウン。
そして、彼は世界一のボクサーとして君臨することとなった。
ジョージの話に戻るが、彼が影響を与えたのは格闘技の世界だけではなかった。
ミュージシャンのジェームズ・ブラウンもまた、ゴージャス・ジョージを尊敬していた。
彼の韻を踏んだ独自の言葉のセンス、そして高価なガウン姿…少年時代のブラウンにパワーと創造力を与えたのはジョージでもあったのだ。
ブラウンもまた音楽界のゴージャズ・ジョージになろうとしていたのだ。
そして、ボブ・ディランもゴージャス・ジョージの大ファンであったことが語られている。
彼に至っては、若いころにジョージと出会い音楽を目指しているとジョージに話したところ大いに励まされたことをきっかけに音楽の道を目指したともいわれているのだ。
日本では無名であるが、今日もあなたが見ているその何かにゴージャス・ジョージは影響を及ぼしているのだ。
そのことを彼は天国からみながらほくそ笑んでいるはずだ。
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