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病気と付き合いながら、細く長く生きていくために|障害学生対象オンラインOBOG訪問キャリアセミナー 松浦秀俊さん

障害学生ライフキャリア支援プロジェクトGATHERING(ギャザリング)では、3月1日の就活解禁に先駆けて、さまざまな障害当事者の先輩の就活について聞くことができるOB・OG訪問形式のオンラインセミナーを開催しておりました!

今回は2023年3月9日に開催された松浦秀俊さん(主に双極性障害の学生さん向け)OB訪問の様子をレポートしていきます!


松浦秀俊さん
Twitter:@bipolar_peer

1982年島根県生まれ。21歳の時に双極性障害を発症。20代で転職3回休職4回を経て、リヴァの社会復帰サービスを利用。のち、2012年に同社入社(現職での休職0回)。 一児の父。精神保健福祉士。公認心理師。双極性障害(躁うつ病)で働くヒントがみつかるメディア「双極はたらくラボ」編集長。

大学卒業後にうつ病の診断をうける

発症は21歳の時、当時大学4年生で名古屋の理系大学にいたんですが、周りを見ていると、大学院まで行ってそこから推薦もらって企業に入るっていうのが一般的でした。私はそのルートが馴染めそうになくて、大学4年で起業したいと考えていたものの、すぐに行動する勇気がなかったので、新規事業をやらせてくれる会社に就職を決めました。ただ就職が決まった後に、「これでいいのかな」って悩み始めてしまい、そこから引きこもってしまったんです。2〜3週間ぐらい外出できないみたいな状況になった時に「まずい」と思って病院に行ったら、「うつの症状があります」と言われたのが最初の診断でした。

ただ、薬をちょっと飲んで1日2日経つとうつっぽい症状は晴れた気がしたので、そこから薬を飲まずに受診を止めてしまいました。その後も内定式があったのに欠席したり、ギリギリまで入社するかどうか悩んだりと、鬱々としながら過ごしてたんです。一方その頃、友人がNPOのイベントの企画に携わっていたことがきっかけで、私もそのイベントを手伝わせてもらいました。それがすごく楽しかったこともあり、寝ないでイベントをフォローし続けて、それで寝て起きたら朝一でバイトに行くみたいな生活をしていました。振り返るとこの時は軽躁だったかなという感じです。なので、これ以降うつと軽躁を繰り返しながら生きてきました。

入社しては辞めるの繰り返し:双極性障害の診断

入った会社が地元の小さい商社で、その中で新規事業担当として全力で働いてました。結局2年目で辞めたのですが、新規事業に配属になって終電まで働いて土日も働いて・・・という日々を過ごしていました。そうかと思えばうつっぽくなって、ギリギリの状態で会社に行くという状況を繰り返しながら、2年間何とかやり終え退職しました。その後の仕事は、前職の出張で出会った人のご縁で、千葉で起業サポートの事業をされている方を知り、勢いで名古屋から関東に引っ越しました。

その人のもとに行って、初めて一人暮らししながら自営業に挑戦。その当時、話題になったWebサービスに関する仕事をしていたのですが、出版の話をいただき本も執筆しました。ただ、本を書き上げたあと「このWebサービスは長く続かない」と気づいてもいたので、その本が出たらすぐ落ち込んで・・・という状況にいました。起業塾のような、勉強してセミナーを開催して・・・など色々なことやってましたが、これも1年経たずに辞めて、実家に戻りました。

新卒で会社に入っても2年で辞めて、自営業も1年続かず、当時25歳。その後転職をし、入社当初はハイテンションで過ごせるものの、その後にプレッシャーでハイテンションの時の仕事量が回せなくなる。結果休み出して休職して辞めてしまう。直近の会社までそういう働き方をしてました。前職まではずっとうつ病だと思っていたのですが、この自分の様子を見た前職の上司が「もしかしてうつではなくて双極性障害では?」と気にかけてくれたことがきっかけとなり、初めて診断がうつから双極性障害に変わりました。

現在の会社で経験を活かす

前職の上司が立ち上げたのが、私が今いるLIVA(リヴァ)という会社です。「『リヴァトレ』という、うつ病など精神疾患で悩む人の社会復帰をサポートする施設を立ち上げたから利用者として使わないか」と誘われて使いはじめました。その時はじめにしたことは「軽躁を抑える」ことでした。今まで「軽躁=元気な状態だったので抑えるものじゃない」「元気だからそれいいじゃん」と思ってたんですが、軽躁を抑えると、その後に来るうつの沈みがちょっと軽くなるということをこのトレーニングで実感しました。

そのトレーニングによってうつから持ち直すスパンが短くなり、そのままLIVAに入社することになりました。とはいえ、一番の不安は「働き続けられるか」でした。前職まで2年以上働いたことがなかったので、まず今の会社で目標にしたのが、2年以上働くということ。そのために例えば「残業しない」とか、最低限の枠の中で働くよう気をつけてましたね。

私の中では、今まで病気のことはずっと隠すものでした。うつ病だっていうことも隠して入社して、途中で周りが気づくという状態でした。しかし支援職になってからは、むしろ自分の経験が求められる、経験を話すことが仕事になりました。支援の仕事という存在をきっかけに、躁鬱に対する視点が変わったと感じています。また、人よりも消耗せずできる仕事でもあると気づきました。個人的に私は話を聞く方が楽なタイプで、聞いてる側に回ることが多いんですが、この支援職は面談で人の話を聞くことが仕事なので、自分に合っていると感じます。例えば私以外のスタッフが「面談で疲れた」っていう話をするときがあるんですが、私はあまりそういう感覚がなくて、他の人と同じ量やっても私は疲れずに余力ができるということはことは今の働き方になって気づいたところですね。

双極性障害で軽躁を抑えるっていう話をすると「無理しちゃダメ」とか、「頑張っちゃダメ」といった話が出てきがちなんですが、長い目で見ればそんなことはないと思っています。最初はもちろん躁鬱を抑えて、その加減を知らないといけないとは思いますが、ある程度自分の中で「ここからは無理だな」っていう枠が分かってきたら、ちょっとチャレンジするというのはアリだと思っています。私も以前は足元を見ないで無謀にジャンプするようなチャレンジの仕方をしていたんですが、今はちょっと地に足ついて背伸びするっていうようなイメージで仕事をしてきました。例えば産業カウンセラーの資格を働きながら取って、社内プロジェクト立ち上げるということを1年後、2年後、みたいな感じで徐々にやってました。「チャレンジできる枠を広げながらの広げ方をしていって、体調を崩さずにチャレンジする」っていうことを意識して12年間ですかね。

現在の活動・工夫していること

5, 6年目ぐらいになって仕事に飽きを感じてしまい「このままやっていけるかな」って感じていた時に、会社の代表から「松浦さんの体験を発信してみたら」という助言をいただきました。それを契機に、今のようなTwitterで双極性障害について発信してみたり、ブログを書いたり、当事者会を開催したり、講演をしたりと幅広く発信をしました。それらを続けたその結果が「双極はたらくラボ」につながってます。

私が病気に対して工夫していることは、体調管理という面では自分のスコアをつけ、活動量を一定に保つようにし、仕事面では相談先を複数持つようにしています。それから、プライベートでは家族と一緒に暮らしていても、一人で過ごす時間を意図的に取るようにしています。人生って長いので、できるだけ細く長く生きるように意識すると、安定して様々な経験が積み重なっていくなというふうに今は思います。


松浦さんのセミナー後半では質疑応答の時間があったのですが、多くの学生が松浦さんに積極的に相談をしていました。双極性障害にしっかり向き合い、付き合い続けてきた松浦さんだからこそ多くの学生が勇気づけられたように思います。特に「細く長く生きる」というアドバイスは全ての人にとって参考になるものではないでしょうか。絶賛就活中の筆者ですが、働くということに対してもう少しフラットに捉えていきたいと感じました。


質疑応答の様子は双極はたらくラボさんの記事で紹介されていますので、そちらも合わせてご覧ください。



GATHERINGではこれからも障害や生きづらさをかかえる若者のキャリアや生き方を応援するために様々なことを企画&発信していきます。

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