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あいまいさの中にただよう

ヨルワシさんという方のnoteで、面白い記事がありました。

何となく分かるようで分からない「コク」の正体が、科学の力で徐々に明らかになっているという内容です。

今までぼんやりとした感覚でしかなかった言葉が、科学の発達によって明らかにされることって多いですよね。

私の好きな野球でも、昔はピッチャーの投げる球が「ノビ」だの「キレ」だのといった言葉で形容されていたのが、今ではラプソードという機器でボールの回転数や変化量、回転軸などが数字で細かく分析されるようになりました。

これまで明確な言葉や数値で表せなかったものが明らかになる瞬間というのは、たしかにワクワクするものです。

そのうち感情すらも数値で定義されて、脳内で○○というホルモンがいくら増えたら「幸せ」、いくら減ったら「悲しい」とする、みたいな時代が来るかもしれませんね。

ところで私は昔から英語が好きなのですが、その大きな理由の一つが「あいまいさ」を許容していることです。

数学や物理などは、数式と法則に支配された世界で、「たぶん、だいたいこんな感じ」といった感覚やあいまいさが入る余地はないですよね。

問題が解けた時や、法則が理解できた時の面白さはもちろんありますが、極限まで論理で突き詰めようとするところに、個人的にはどこか息苦しさを感じないでもありません。

ところが英語になると、規則と感覚のバランスが絶妙というか、ニュアンスの介入が許されるところが残っているのが楽しいんですよね。

日本語と比べると英語はかなりルールがうるさい方で、例えば一部の例外を除いて主語は省略してはいけないとか、主語の次には動詞がこないといけないとか、文章を書く時には1パラグラフに1つの主張しか入れてはいけないとか、語順や文章の構成には明確な決まりがあります。

いったん慣れてしまうとそのルールに従って読んだり書いたりすればいいので、とても分かりやすいところが私としては好きな理由の一つです。

その一方で、あいまいさが許されるケースも多々あります。

例えば「~について話す」という意味の表現は "talk about ~" が真っ先に思いつきますが、"talk over ~" でも通じます。後者の方が、じっくり時間をかけて十分に話す感じです。

どこまでが "talk about ~" で、どこからが " talk over ~" なのか明確な基準がないので、使う側の感覚次第で使い分けます。

他の例でいえば、「~できる」という意味の助動詞 "can" は、「自分ができると思っている」という場合に使われます。("can" に限らず、助動詞は基本的に主観的な意見を表す時に使うものです)

50mを8秒で走れる人がいたとして、これは人によって速い、速くないと意見が分かれるスピードでしょうが、本人が速いと思っていたら " I can run fast." と言えるわけです。データで示されない限り、「速く走れます」という言葉はかなりあいまいさを含んでますよね。

厳密なルールがある一方で、このような感覚やあいまいさが許されるのが心地よいというか、英語を勉強していて楽しいところです。

今は何でも白黒はっきりつけようとする傾向が強い気がしますが、常に物事を割り切って考えられるような人は恐らくいないでしょう。多かれ少なかれ、時に「まあいいか」と妥協したり、時に「判然としないけど仕方ない」とあきらめたり、上手くあいまいさと付き合っていかないと生きづらくなるだけな気がします。白と黒の間にただよって、人間の不完全さを味わうのもまた一興ではないでしょうか。

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