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それが堕落であっても肯定できるか?——新教育的主張に対する堕落論的問題提起

人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

『堕落論』集英社文庫、19頁。

坂口安吾の堕落論の要旨を取り出すならば、おそらくここにあたるのではないだろうか。
戦前に重視されていた道義が廃れつつあった戦後日本において、その堕落を肯定的に評価したのが、坂口安吾という人物である。

彼の思想は、堕落論と続堕落論を併せて読むことで非常にわかりやすくなる。
彼にとって堕落とは、「健全なる道義」からの堕落である。
直接的に論じられるのは、時世的に従来の「健全なる道義」に反する人の多かった未亡人や復員軍人であり、「健全なる道義」の例として挙げられるのも天皇制や武士道といった政治的精神性である。

しかし、「健全なる道義」はいつの時代にも存在する。それは、「人々がとらわれているタブー」と言い換えてもよい。
学校には毎日通うべきである、部活動よりも受験勉強を優先すべきである、親の言うことは絶対である、大学卒業後は一般企業に就職するべきである、等々。
そのように「健全なる道義」を敷衍するとき、次のような坂口安吾の訴えは、現代の私たちにも十分に届きうるものとなる。

人間の、また人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところ素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。

『続堕落論』集英社文庫、29頁。

まず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。

『続堕落論』集英社文庫、31頁。

堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義退廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。

『続堕落論』集英社文庫、31頁

昨今、新教育的な色彩を帯びた主張が隆盛しているように感じる。
——自分に素直になろう。好きなことをやろう。自分の関心を貫こう。
坂口安吾の主張は、これよりも二段深いところにある。
それは、「自分に素直になり」「好きなことをやり」「自分の関心を貫く」ことは、ときに「健全なる道義」に反し、堕落となることに自覚的であった点である。
そしてさらに、それが堕落であることを理解したうえで、堕落を肯定している点である。

彼は、「堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎない」と、堕落が悪しきものであることを認めている。堕落自体を善と見なしたわけではない。
彼の堕落の肯定は、「善いこと」としての認定ではなく、「避けられないこと」としての認定である。

人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

『堕落論』集英社文庫、19頁。

人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。

『堕落論』集英社文庫、20頁。

坂口安吾が求めるのは、永遠に堕落し続けることではない。
堕落すべきときに堕落し、堕落するときには堕落しきることが求められている。
そのため、やがて人は堕落をやめ、「健全なる道義」に従うときが再びくる。

翻って、現代の新教育的な主張たちはどうか。
——自分に素直になろう。好きなことをやろう。自分の関心を貫こう。
これらの声は、探究学習や子どもの社会参画などの文脈で何度も目にし、耳にするものである。

こうした声は、それが堕落になりうることに自覚的であろうか。
こうしたメッセージは、「堕落に陥らない限りで」すなわち「道義に反しない限りで」という条件を伴ったメッセージになってはいないだろうか。
「好きなことをやった」結果、学校に行かず毎日スマホゲームをしているだけであるような生活を、排除したものになってはいないだろうか。

さらに問うならば、「好きなことをやる」こと、それが堕落であっても肯定できるだろうか。
肯定できるのであれば、それはなぜ肯定できるのか。
人権という別の健全なる道義に従っているからか。
そうであれば、その別の健全なる道義にさえも反するような堕落は——例えば自身の人権を大事にしないような行動は——肯定されないことになってはしまわないか。
そしてもし堕落を肯定したとして、その堕落の先には一体何が待ち受けるのか。

新教育的な主張は、子ども自身の内発的な声を大事にする。
その結果、ときにそれは外圧的な「健全なる道義」に抗することを後押しする。
その意味で、「好きなことをやる」生き方は堕落と零距離にある。

新教育的な主張が強くなりつつある現在だからこそ、そうした主張は、ここまで提起してきたような堕落論的問題——堕落を含むか、否か。肯定するか、否か。なぜ、肯定できるのか。——によって再点検されねばならないだろう。


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