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それぞれ特異な身体(日記)

昨日このような日記を書いた。ここに書かれたことについて、もう少し考えてみようと思う。(ちなみにいまは電車の中。2時間半かけて、千葉県の某所へ向かっている。)

昨日の私が書いた日記を読むと、自分が満員電車の中で体験したことと、『宝石の国』についての思考が同時に展開しているように読める。つまり、宝石たちの「からだ」のことについて、それを人間の「からだ」の比喩として考えている。あるいはまた反対に、人間の「からだ」をフォスフォフィライトたち宝石の「からだ」の比喩として考えている。

生身のからだ=宝石のからだという比喩の橋渡しによって、それが両輪となって思考が一挙に展開される。

『宝石の国』はそのような力のある作品だと私はたびたび感じている。『宝石の国』について考えることは、自らの「からだ」や生について考えることと重なり合う。当然それが比喩である限り、ふたつはぴったりと完全に重なることはない。重なり合いながらズレを生む、そのズレが思考を駆動する。


ある作品がそのような強度を持つというのはどういうことなのだろうか。作品を読んだとき、その世界に(私と異なるあり方で)確かに存在する身体を感じること、その身体が、私の身体との落差を抉りだすということについて。


いま、電車を乗り換えたので、ここで話も切り替えてみる。連載の長編漫画(ここではジャンプ系の少年漫画が念頭にある)の主人公に求められるのはなにか。それは「ベクトル」ではないかと思う。どういうことか。ベクトルとは「力」と「方向」である。方向とは目指すべき目的地の方角のことだ。

つまり、長編漫画の主人公に必要な資質とは「力」と「目的」である、と言い換えてもいい。もちろん例外はいくらでもあるが、いったんそういうふうに考えてみる。

ふつう連載漫画はその形式上、目的に向かって障害を次々に乗り越えていく主人公が求められる。二時間の映画ならばひとつの事件を描いて終わり、でちょうどいい長さだが、連載漫画では、事件は立て続けに起こり、それを乗り越えてゆく主人公が必要となる。

その「目的」と「力」をどのように主人公が獲得するのか、というところから漫画は始まる。『宝石の国』ならばフォスフォフィライトは「最も脆く役に立たないが宝石なので死ぬこともないからだ」を与えられたことによって、宿命的に「目的」を負わされる。みんなの役に立ちたい。そして彼は徐々にその弱いからだを失っていくことと引き換えに「力」を得る。しかしその過程で、シンシャとの原初の約束を忘れていく——。

またジャンプ系で言えば、例えば『ヒロアカ』では、無個性だった役立たずのデクが、最強のヒーローであるオールマイトから「ワン・フォー・オール」という「力」を継承する。そしてまた「目的」も継承されていく。『鬼滅の刃』も同じく、死んでいった人々から「力」と「目的」を継承する物語だった。


こう考えた時に異質なのは藤本タツキの作品だ。散々指摘されていることだろうが、『ファイアパンチ』にしろ『チェンソーマン』にしろ、主人公は不死身の体という「力」を持つのだが、明確な「目的」を持たない。特に『ファイアパンチ』に顕著だったのは、話がコロコロと変わって、どこへ向かっているのかわからなくなるような印象だ。

『チェンソーマン』ではもっとストレートに、デンジは自分が何を求めているかわからないことを自覚している。初めはただ平凡な幸福が欲しかった。しかしそれをいざ手に入れてみると、もうそれだけで満足することができず、チェンソーマンになって賞賛を浴びることをもう一度求めてしまう。

どちらの作品も、「目的」を探す物語なのである。話が展開する中で様々な事件が起こり、その時その時の短期的な「目的」は生まれる。しかしそれらを貫く「大きな目的」が欠けている。

そしてその結果、「力」は次々と障害を乗り越えてはいくのだが、それは常に四方八方へランダムに炸裂するような、定まった方向性を持たないカオティックな運動となる。そのようなドラマを成立させているのが「不死身の体」である。ある特異な体が主人公に与えられた時に、本人の目的意識と関係なく宿命的に始まってしまう物語である、という点で、藤本タツキ作品と、「最も脆く役に立たないが死ぬこともできない」フォスフォフィライトを主人公に据えた『宝石の国』には共通するものがある。


ある特異な身体を描くこと、それこそが、私たちの身体との落差を抉りだす。私と異なるひとつの身体に固有の生が描かれるとき、私の身体が相対化されるのだ。

だから私は『チェンソーマン』や『ファイアパンチ』も、私の身体に関係することだと感じる。藤本タツキは不死身の身体を作品の中に本当に作り上げる。すると、それを読む前はただの「身体」だったわたしの身体は、それを読むことで「不死身ではない身体」として定義し直される。そのとき、デンジの身体もまた私の身体に対するひとつの比喩であり、それによって私は彼の身体と私の身体の間の差異について考えることができる。


ここまでに電車の遅延などがあって乗り換え接続が狂った。なんとか用事には間に合うと思うけれど、ギリギリになってしまった。


さて、例えばフォスフォフィライトやデンジやアグニの身体について考えるとき、同時にその落差によって私の身体が抉り出される、そのようなものとして、すべての他者の身体を捉えること。あらゆるすべての人の身体が、それぞれ固有に特異なものである。それを感じながら、目の前の他者の身体を捉えること。


外見的には五体満足である私が同様に外見的には五体満足である誰かと話しているときに、そこに「身体の翻訳不可能性」があることを忘れてしまう。私の身体とあなたの身体の落差は「健常者」という魔法の言葉によって抹消される。あるいはまた、何かしらの肢体不自由をもつ人と対面した時に、その身体の差異を規格化された「健常者」と「障害者」の差異として捉えてしまう。そのような、身体の固有性を抹消する身振りを批判しなければならない。

自分の身体や生についていかに考えることができるのか。その手掛かりとなるのは常に他者の身体や生であり、その落差から思考を始めることができる。私の身体がこのようにあることが自明でも必然でもなく、偶然性によって織り上げられた特異な身体であるということを、この地点から発見し直すこと。

それを、いかに現実の目の前の他者に対して適用することができるだろうか。ALSの少年と、その面倒を見るのに疲れ果てて行政への不満を吐き捨てながらも、少年の頭を撫で続ける母親を前にして、私はどのように自分の身体を考えればよいだろうか。

仕事の関係上、重症心身障害児に会うことが時々ある。彼らは自分の身体を維持することすら一人ではままならない。それでも生きていかなければならないことは、私にとっては苦痛に満ちたものとして想像される。しかし彼らも私も各々の生しか知らない。障害者という属性で括ること自体が暴力でもある。すべての身体が特異な身体である。その神秘を通さずして、私は自分の身体に触れることすらできない。

そしてもうすぐ目的駅に着く。なんとか用事の時刻には間に合った。途中で間に合わないかもしれないと思って、何度も乗り換えルートを再検索したせいで、思考もとっ散らかったような気がする。千葉の皆さん、こんにちは。今日は曇り、少し肌寒い風が吹いている。

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