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灯。

今年の5月頃に活動名を「曽我灯」に改名した。
その真意を公にお話しする事なく、
気がつけばもう今年も終わりそうだ。

改めて何故、この名前に改名したのかをここに記す事にした。
私的な事だが、最後まで読んで頂けたら幸いです。


理由その①  ひとり旅で灯を頼りに歩いていた。
以前から活動名を英語表記から漢字表記にしたいと考えていた。
それは35歳となり、活動名を少し大人らしくしたかったからだ。
しかし考えてみたものの、なかなか良い命名には至らずに日々を過ごす。

去年の年末に東北へ、人生で初めてのひとり旅を経験した。

時期も時期だったので、開いているお店が殆どなく、
年末営業でgoogleマップもほぼ機能しない。
だから夜になると、灯だけを頼りにただただ街を歩き回るしかなかった。
そして立ち寄ったお店で多くの出逢いがあり、
ご好意の紹介で、灯りから灯りへまた移動し、多幸な時間を過ごした。

今でもそれが旅の基盤であり、醍醐味ともなっているのだ。

偶に「あの場所に戻りたい。あの人たちに会いたい。」
そんな寂しさを隠しきれない夜がある。

そしてまた飲みに夜の街へ出て、
たまには新規開拓をし、
また訪れたい街や人が増える。

そうしてまた寂しく、人恋しい夜が増える。
なんとも心地のいい悪循環だ。

全国に「また訪れたい。」と思う灯りがある。
そしてこれからも、灯りを道標に旅をする。

東北での旅で「灯」と言う文字が、
あの街の雪の様に心に積もった事が始まり。


理由その② 中性的な名前にしたかった。
僕が幼少期より女性への憧れがあり、
自分がなりたかった女性像を投影する制作をしている経歴から、
改名するなら、中性的な名前を命名したかった。

中性的な名前を調べてみるも、渚(なぎさ)、薫(かおる)、楓(かえで)など。
正直どれも自分らしくなく、しっくりこなかった。

そこで「灯」と言う文字を、ふと。思い出した。
しかし改名をしてから「"灯"をどう読むのか。」
と数人に問われた事がある。

「ともる」もしくは「あかり」であろう。

個人的にはどちらで呼ばれてもいい。と思っている。

僕は人と関わる時に、性別や年齢と言うよりも、
対一人の人間として、それぞれの固有名詞関係で、
人間関係が形成されていると思う。

だから、その人が思う”らしい呼び名”で呼んでもらえたら嬉しい。


理由その③写真。
僕の写真は暖色系のイメージがある人が多いのではないだろいうか。
そこにその瞬間の暖かみ、曖昧さ、揺らぎが詰まっている様にも思う。

そして灯はいつまでも、眺めていたい存在でもる様に、
僕の写真も何度もじっくりと見たいと思ってもらえたら。
と言う願いもこもっている。

以前、「白黒の写真にも色が見える。」と言って頂けた事が、とても嬉しかった。カラーだろうと、白黒だろうと灯を与え続けれるようにありたい。


理由その④人間性。
皆さんは「灯」と聞くと、まず何を連想するだろうか。
暖かさ、灯り、安心感と柔らかな包み込む様な印象もあるが、
曖昧さ、不安定、揺らぎ、危うさ、と繊細でむらがある様にも思う。
すべて、自分の人生や写真に詰まっているものだなと思った。

自分自身は人間としても、作家としてもまだまだ未成熟で不安定だ。

そしてフリーとして働く現在。フッと吹けば消えてしまいそうな、安定のない生活への恐怖感との戦いの日々。

偶に強迫観念でパニックの様になることもある。
狭いシャワールームに閉じ込められて、
下からどんどん水位が上ってくる様な耐え難い恐怖だ。

それに僕は人付き合いが苦手で、不器用でもある。
人間は好きだけど、無意識に一定の距離を取ってしまう事が多々ある。

「刹那的な人付き合いしてるね。寂しくならない?」
「温度感のある写真撮るのに、人間性が冷めているのが理解出来ない。」
「対象者と距離感が近いようで、傍観者感を感じる。」

と身近な人にはそう言われる。

生憎僕は、身近な相手の表情を把握出来るほどの灯火しか持ち合わせていない。当然その灯火では遠く、多くの人を照らす事は出来ず、近場の人も少し離れてしまえば、すぐに見失ってしまう。

でも、どんなにほんの小さな点でも
自分の灯りが誰かの心に残っていて。
日々変化していく人生の旅路の途中で、
ふとした時に戻ってきてもらえたら、
そんな幸せな事はない。

そんな気がしている。

だから「灯」に自分のすべてが詰まっている様に思った。



改名については、そんなところだろうか。
最後まで読んで頂けて、本当に感謝しかないです。
今後とも、曽我灯をよろしくお願い致します。




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