見出し画像

西ヨーロッパ その3 独仏伊の原型

和食続きだと飽きるので、今日は洋食とまいりましょう。

肉によく火を通すウェルダンならぬ、ヴェルダン条約締結の後、3人の王はそれぞれの領地に戻ります。この後、東、西、中の3つに分かれたフランク王国は、9世紀後半から10世紀前半まで、多くの小国に分かれます。そりゃ、当然です。だって、分割相続がフランク族の慣例でしたから。

日本に目をやれば時は平安時代、そして、オイラが好きで好きでたまらないイングランド七王国の1つウェセックスのアルフレッド大王が活躍したのが丁度この頃。

受験勉強ではないので、面倒なことは一切はぶいて、さささっと参りましょうね。今日のテーマは、どのようにして今のフランスドイツイタリアができていったかについての、おおまかな流れ。

まずは、中フランク王国から。長兄で皇帝となったロタール1世(以後はイタリア式にロターリオ1世と呼びましょう)は、東フランク王となった弟と同名の息子ルートヴィヒ2世(以後はイタリア式にロドヴィコ2世)を皇帝とします。そして、5年後、ロターリオ1世が亡くなると、中フランク王国は3人の息子に分割されます。でも、早くに亡くなった三男のプロヴァンス王国は、長男のイタリア王ロドヴィコ2世と次男ロターリオ2世が分割。

その後、次男のロターリオ2世のロートリンゲン(ロレーヌ)王国でも相続問題が。そこへ、東フランク王ルートヴィヒ2世(こちらはドイツ式で)と西フランク王カール2世(フランス式にシャルル2世とまいりましょう)の叔父2人がしゃしゃり出てきて、ロターリオ2世の王国を分割することに。さらに、なんだかんだあり、西フランク王シャルル2世が漁夫の利を得てロートリンゲン(ロレーヌ)王国を手中に収めます。これによって、現在のフランスの原型が生まれることに。でも、次の王たちは短命でした。

皇帝兼イタリア王ロドヴィコ2世が後継者を遺さず死亡すると、これまた叔父のシャルル2世しゃしゃり出る出る。そして、教皇ヨハンネス8世に接近し、イタリア王国の支配と皇帝の地位を手中に収め、中フランク王国は解体されてしまします。

最後がドイツの原型についてです。東フランク王ルートヴィヒ2世の王国も3人の息子たちによって分割相続されることに。兄のルートヴィヒ2世が死去すると、またまたしゃしゃり出てくる西フランク王シャルル2世。フランク王国の統一を目指し、東フランクへ軍を進めます。

しかし、ルートヴィヒ2世の息子3人が力を合わせて戦い、西フランク軍を壊滅させ、統一の試みは失敗。翌年、西フランク王シャルル2世はサヴォワで病没。

その後、カール3世(肥満王)が、東フランク王となります。本来、チャンスがなかったはずなのに、兄弟が次々に亡くなってしまったのですから、運がいい。強運の肥満王、さらに皇帝の地位とイタリア王位まで手にしちゃうから、素晴らしい。一時的ではありますが、この肥満王、西フランク王位も手に入れます。もちろん、この後、一波乱ありますけどね(笑)。

「♪♪ それにつけても、フランク王国の唯一の王 ♪♪ カ~ル ♪♪」(むかしのCMソング風に)って、カール3世(肥満王)が最後ですからね、こんな名誉に浴することができたのは。

復讐しようじゃなくて、復習が必要な方はぜひ、以下の記事をご覧ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?