蛍大名と玉の輿
蛍大名とは、蛍の尻が光るように、尻の力で大名になったことを指します。代表が京極高次。
玉の輿(たまのこし)は、女性が金持ちの男性と結婚することにより裕福になること。
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足利(下野(しもつけ))⇒ 笠間(常陸(ひたち))⇒ 浜松(遠江(とおとうみ))
本庄宗資(むねすけ)は摂関家の1つである二条家の家臣(青侍)本庄宗正の次男として京都に生まれます。のちに甥にあたる上野・館林の徳川綱吉に仕え、綱吉が5代将軍となると江戸城へ。
そして、1万石に加増され、下野国・足利藩を立藩(1688年)。その後、領地を常陸に移されて笠間藩主4万石(1692年)となりました。
なお、五男・康重は牧野家の養子となります。
次男・資俊の時に、松平姓を許され、遠江(とおとうみ)・浜松藩へ移封(1702年)。
世継ぎであった宗弥が早世したため、正室の弟であった資訓(すけくに)が旗本・佐野家から養子に。よって、亡くなった宗弥は資訓の甥にあたります。ちなみに、本庄宗資(むねすけ)の Y染色体は資俊-宗弥で途切れて、佐野家の Y染色体に。一時、資訓は三河・吉田に転封となりますが、再度、浜松に戻ってきます。
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浜松(遠江)⇒ 宮津(丹後)
遠江・浜松より資訓(すけくに)の子・松平(本庄)資昌(佐野家の Y染色体)が7万石で入ります。丹後・宮津藩からはのちに老中2人、寺社奉行1人を輩出しています。明治になると華族に列し、子爵となりました。
本庄宗資(むねすけ)が、足利1万石を足掛かりに、笠間4万石となり、子孫( Y染色体は別ですがね(笑))が松平姓を許され、浜松、そして、7万石で宮津に行くなんて不思議でしょう。
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小諸(信濃)
本庄宗資(むねすけ)の五男で、牧野康道の養子に迎えられた康重が、越後・与板藩から1万5000石で信濃・小諸に入ります(1702年)。さらに、特別な功労があったわけではないのですが、3万石の領地が与えられて、5万石並の格式に。不思議でしょう。
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岩滝(美濃)⇒ 高富(美濃)
高富藩は美濃国、今の岐阜県・山県(やまがた)市(山形県・山形市じゃありません)にありました。
本庄道章(みちあき)は旗本でしたが、1705年、6000石加増され、1万石の大名に列し、美濃・岩滝に陣屋を構えます。そして、1709年、藩庁を美濃・高富に移しました。明治になると子爵に。ちなみに、道章は本庄道芳(みちよし)の孫でした。
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蛍大名
高富のお殿様となった道章の祖父である本庄道芳(みちよし)は兄で、大名に大抜擢された本庄宗資(むねすけ)は弟でした。
「誰の」って、それは、上野(こうずけ)国・館林藩主から5代将軍になった綱吉の生母である桂昌院(徳川家光側室・お玉の方)。
綱吉の将軍の在職期間は1680年 - 1709年。弟が1688年に大名になり、兄の孫が1705年に大名に抜擢された時期と見事に重なっているでしょう。弟の本庄宗資(むねすけ)や、兄の本庄道芳の孫・道章は、桂昌院の力で出世したから蛍大名。
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では、玉の輿。
八百屋の娘として生まれたお玉が、家光の側室・お万の方に仕え、春日局の目にとまり、家光の側室となり、1646年に綱吉を産んだから玉の輿。そして、後に桂昌院と呼ばれ、その威光で蛍大名を生みだしました。
他にも、お玉は西陣織屋の娘や畳屋の娘って説もあるのですが、『徳川実紀』によれば、関白・二条光平の家司である北小路(本庄)太郎兵衛宗正の娘となっています。
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令制国(りょうせいこく):飛鳥時代の律令制に基づいて設置された律令国(りつりょうこく)ともいう行政区分。
今回、美濃、信濃、常陸、上野、下野、丹後、遠江、三河、越後といった「国」が出てきました。ちなみに丹波の北部が丹波から分かれて丹後となりました。
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