漢字/ひらがなの表記法について (1)

 本の執筆や翻訳をやっていて、いつも悩まされるのは漢字/ひらがなの表記分けである。網羅的で整合的な基準が存在しないため、個人間でも個人内でも揺れが不可避的に生じる。せめて自分にとって揺るぎない(震度6くらいまでは耐えられる)基準を立てるため、考えてみる。
 最初に私の関心を明らかにしておくと、以下に例を挙げるような表記揺れをなんとかしたい。

・「例えば」か「たとえば」か
・「単なる」か「たんなる」か
・「…に関する」か「…にかんする」か
・「…に基づいて」か「…にもとづいて」か
・「…の中に」か「…のなかに」か
・「…の間で」か「…のあいだで」か
・「行う」か「おこなう」か

 これらは私自身の書くもののなかでも揺れるし、他人と一緒に仕事をするときには対立のもとになる。そのような実践上の問題を、理論にもとづいて解決したいのである。

 まず人々が従っている、あるいは作ろうとしている諸々の基準を見てみる。

 文化庁第3期国語審議会が昭和31年に「正書法について」という報告を発表している。

 これを読むと、規則の体系としての正書法を国として定めるつもりがないことがわかる。おそらく委員のあいだで多岐にわたる意見の対立があり、それを何とか取りまとめたものだろうと推測される。ほとんど毒にも薬にもならない「お気持ち」が述べられているが、若干興味をひくのは、「語意識」という曖昧な概念を導入して表記分けの説明をしている箇所である。

…「家中」「一日中」の「~中」は,いっぱいの意味を添える接尾辞に転じて,語原とは離れてきているから,語原によらず「じゅう」と書いてもさしつかえない。

 「〜中」をひらがなで書く場合、語源を考えれば「ぢゅう」だが、接尾辞になっているから「じゅう」という表記を許容すべきだという理屈である。これは現代でいう「文法化」に着目していると考えられる。

 また、合成語中の濁音についても、「語構成の分析的意識」がある場合とない場合とで方針が分かれることを述べている。たとえば「片付く」は「片を付ける」とも言うように「片」と「付く」に分析する意識を持って使われているから、「かたづく」と書く。しかし「稲妻」は、語源的には「稲」と「妻」から合成されているが、そのように分析する意識を持って使われてはいないから、「いなずま」という表記を許容すべきだとされる。
 内容を持った要素としての独立性があるかどうかによって表記を決めるという方針は参考になるし、他の言語にもあてはまる。現行のドイツ語正書法ではaufgrundと書く語はかつてはauf Grundと書かれていた。文法化して要素が独立性を失っている場合には分かち書きをしない、という方針である(ただしこの方針は徹底されていない。例えばbekannt machenは分けて書かれる)。
 とはいえ、国語審議会報告が主に気にしているのは「じ/ぢ」のような表記揺れなので、冒頭に述べた私の関心からはズレている。次はもっと最近の基準を見てみたい。

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