『口碑』

皆さん、こんにちわ。

臥龍桜です。

前回は、『原日本人とは誰?』で終わりましたね。

では早速本題へと一緒に行きましょう。



色々調べた結果と単純に考えた

1個人としての結果です。

それは『飛騨地方の人達です。』

** **

では何故『飛騨地方の人達』なのか

ポイントをお話していきます。

飛騨には『飛騨の口碑』というものがあります。

飛騨の口碑と正統竹内文書、竹内文書の
共通点。また科学的事実と合わせて
お話しします。


竹内文書は神が降りて来て

岐阜県位山を拠点としていた。


飛騨の口碑では乗鞍近辺で人類が誕生し

乗鞍から降りて来て、水無神社近辺に住み始めた。

位山は飛騨の口碑で御神体。

正統竹内文書では『越中王国』が

あったと言われている。

正統竹内文書では

元々自然崇拝で自然と人類の共存をしていた。


飛騨の口碑では

自然崇拝、先祖崇拝

水や山、太陽、人に恵みを与えてくれるものに自然に手を合わせる様になった。それから先祖と自然

竹内巨麿さんが祖父から、神宝などを受け取った時

『世の中が平和になったときに公開せよ』と言われた。

飛騨の口碑は

山本健造(やまもとけんぞう)さんが

飛騨の口碑を語り部翁(かたりべおきな)

から口碑を聴き本にまとめた。

語り部翁から

『良い時代が来たら

飛騨の口碑を公表してくれと頼まれる』

飛騨の語り部翁の家に伝わる皇室や日本の極秘の事(口碑)


地質学的に飛騨地方(富山、石川、福井含む)が日本で1番古い鉱物や、日本で1番古い化石などがこの地方から出てきている。

おもに岐阜県飛騨地方(この場所は、富山、石川、福井を含まない)

これは飛騨の口碑の、海に沈んでいた

日本が

1番最初に頭を出した大陸が乗鞍から白山エリアだと伝わっています。


正統竹内文書は実は口伝

飛騨の口碑は口碑

口伝、口碑の違いは。

口伝は、口伝え(くちづたえ)の教え。
それを書きしるした文書。

口碑は、昔からの言いつたえ、伝説。

漢字は違うものも結局のところ同じ。
多少の違いはあります。

これは前回、お話した事ですが。

後でポイントになるので、もう一度お話しします。

正統竹内文書では

社殿はないが(幽斎 ゆうさい)で祭祀を執行している社に「皇祖之霊皇大神宮」がある。

口伝によれば、神武四年に神武天皇の詔(みことのり)によって創建された

詔(みことのり)とは

天皇の命令の様なものだと想っていただければ良いと想います。

幽斎(ゆうさい)とは

簡単に言うと

社殿が無くても清らかな場所で

お祭りをやってる所に

皇祖霊大神宮という所があり

神武4年に神武天皇の指示により

つくられた。


この様に単純に共通点を結んでみました。

皆さんはどう想いますか?

この様に『飛騨の口碑』と竹内文書

正統竹内文書、科学的事実、にはこれだけの共通点があります。

これだけの共通点があって無関係だと想いますか?

でわ

『飛騨の口碑』のお話の個人的に

ポイントになるであろう部分をお話します。
長くなりますが、お付き合いください。


飛騨の口碑をお話するには

外せない人物がいます。

その方は『山本健造』さんです。
先程、少しだけお話ししましたね。

山本建造さんは幼少の時に

山本さんの父親が腰痛になり

動けない状態になり一心不乱に祈ったら治った。

そしてその不思議な出来事を解明しようと

勉学に励み研究を生涯続けました。

そして23歳の時に教員免許をとり

赴任先の生徒の母親が痛みで苦しんでるいるのを父親の時と(進化していた)同じ様に治した事により

その噂が語り部翁の耳に入って、語り部翁が山本氏の所へ来た。

(語り部翁とは、飛騨の口碑を伝える人の事です。)

語り部翁は、何故病気を治せるのか?

などを聞き

山本さんは、幼い頃に父が腰痛で動けなくなった、それを『治れ、治れ』と念じていたら

治った不思議な出来事があった。

普通なら、それで良かったで終わるんですが

山本さんは、何故?治ったのかを

自分なりに探求し研究していました。

そして何故治ったかを悟り

まとめたものが、『六次元弁証法』

(ろくじげんべんしょうほう)

と言います。

この六次元弁証法で、多くの人を治してきたと語り部翁に話ました。

(六次元弁証法は本として出版されています。)

語り部翁は、その話を聞き

お前のような神通力(念じる力)というものが本当にあるとわかっているものなら。

大昔から我が家に伝わっている皇室や日本の極秘の事が理解できると思う。

今こんなことを世間に漏らしたら流言飛語、不敬罪で監獄行きじゃ。

お前を見込んでしっかり伝えておく。

お前の生きているうちに良い時期が必ず来ると思うからその時

世の中に伝えてくれよと切々と頼んだのです。

この話が昭和10年の事です。

竹内巨麿さんがキリストの墓がなど

酒井勝軍(かつとき)さんがピラミッドが

などの話をしていた事ですね。

その時のゴタゴタしていた話が

新聞などで語り部翁の目にも止まっていたので、この様な話をしたら監獄行きだと
言ったと想います。

この様な出来事があり。

山本さんは語り部翁から

飛騨の口碑の話を聞き

飛騨の口碑を本としてまとめていきました。

では簡単に飛騨の口碑の内容をお話しします。

日本は淡山(あわやま)今の乗鞍岳の

丹生池(にゅういけ)で生命がわいた。

アとは天を意味し

ワとは地を意味し

その二つを合わせて アワ

アワ=淡山です。

丹生池から誕生した生命は想い想いに進化し

陸地にもだんだん人が増えていきました。

(丹生とは生命が、『にゅう』っと現れた事を表現しています。) また『丹』(に)は水銀を意味します。

先祖代々、私達はどこにも行かず

淡山の麓に住んでいました。

元気がある若者は想い想いに色々な場所に行き暮らして行った。

新潟、長野、更に東北の方にも行きました。

その当時は、蒸し暑かったから西に行くよりも

東北の方に行く方が涼しくて過ごしやすかったみたいです。

色々調べた結果、根拠的なものがある資料で見てみると約12万年前には今で言う島根県辺りで石器(狩猟に使うもの)が見つかりました。

10万年前〜8万年前は、東北地方の方が過ごしやすかた様です。**

それぞれに、飛騨から出て行った人達は

たまに、孫を連れて帰ってきたりしました。

中には全く帰ってこない人達もいました。

時代は流れ、飛騨中に人々が住む様になりました。

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次は飛騨の口碑の

飛騨が何故飛騨になったかです。

淡山の丹生池を囲み、また住んでいる近くに先祖の亡骸(なきがら)を埋めて、その傍に池を造り。

皆で池を囲んで、池に太陽の光、月の光を浮かべてその光をジィーと見つめながら心から感謝して先祖を拝み、心を鎮めた。

その行事が朝夕なされ、日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)といい

それが日抱(ひだき)、日抱(ひだ)と呼ばれ頻繁に行われる様になりました。

飛騨を出て行った人々は
自分の故郷を、日抱(ひだき)をするところ

日抱(ひだ)といい後にひだ(飛騨)という地名になりました。

日抱御魂鎮は飛騨のあちこちで行われていました。

大昔から長い長い間、最もさかんに行われたのが

今の丹生川村(にゅうかわむら)で

今では日抱御魂鎮をしていた場所が神社になり日抱宮(ひだきのみや)という名前になり残っています。

飛騨が何故?飛騨という名前かはこの様なら事があったからです。



今回は以上になります。

次回は『〜口碑〜更なる旅』

でお会いしましょう。

以上。

臥龍桜でした。

追記

このお話にも『カケラ』が書いてあります。
興味がある方、前回のマガジンを読んでみると

あれ?もしかして?

と想う事があると想います。




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