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超訳ノートルダムの鐘~ディスニーの本音のところ~

重度のオタクではあるが、ディズニー経験値が低めの友人たちに、ノートルダムの鐘を観てほしくてやったプレゼンです。前半は純粋に作品を紹介していて、後半で例のごとく偏見マシマシになります。毎度すみません。

ノートルダムの鐘とは

ディズニーマニアがこぞって推す作品です。

1996年公開。興行的には成功しなかったけど、ファンからの評価が異様に高い作品。美女と野獣で大成功しちまったおかげで本格的なミュージカルを作ろうとしたんだろうな、もうとにかく気合が入りまくっており、日本語吹き替え版は当時の劇団四季のスターたちによってなされているレベルだ。もちろん舞台化もされている。
2023年、金曜ロードショーで「ディズニー映画何やってほしいファンアンケート」が行われた結果、堂々の上位に食い込んで地上波放送された。
ちなみにランクイン・放映されたのはこの映画の他に3作品。
ミラベルと魔法だらけの家・プリンセスと魔法のキス・ズートピア
新作品はまあまあいいとして、旧作品はものすごくオタク票であることがうかがえるラインナップである。全般曲が良すぎる。

ディズニー作品として異色の作品なんです。

ヴィクトル・ユゴー(レミゼを書いた詩人・小説家)の若いころの小説「ノートルダム・ド・パリ」を原作とした映画作品なのだ。この小説自体昔からかなり評価されていて、バレエ作品になったり、実写映画になったり、いろいろしている所謂「名作」というやつだ。
ユゴーさんの言いたいことって実はどの作品でも一緒で、要するにレ・ミゼラブル(あゝ無情)。常にそれである。
この世ってとっても理不尽!理屈じゃない!いやだー!!悲しいー!!!と叫び続けている人なのだ。
ポジティブ大魔神ディズニーとシナジーが合わな過ぎる。
結果、シリアスだし画面が終始暗いしで興行的には成功しなかった......んだが、
オタク諸君、君らはこれが好きなはずだ。今からそれを説明する。

こんなお話です。

子供向け映画たるアニメ版映画に明確には描かれていない(が、矛盾しない)設定もあるのだが、noteなんてものを読むのは大人だと思うので、情報量を増やすことを重視し原作・舞台よりで解説する。

登場人物


カジモドの画像です
本作の主人公である。

カジモドくん
ノートルダム大聖堂の鐘つき堂でフロローに飼われている奇形の男。20歳。鐘付きが仕事なので大変剛力で身軽。舞台版では鐘の音で鼓膜が破れていることが表現されている。(のに主人公だからめちゃくちゃ歌う。)人と会話するときは唇を読んでいるので会話はスムーズ。
原作では出自不明の捨て子だが、ディズニー設定ではフロロー(後述)に業を背負わせるため、アニメ版では「フロローに迫害された結果事故死したジプシーの子」、舞台版では「フロローの最愛の弟(放蕩者)がジプシーとの間に作って遺した子(甥)」という設定にになっている。
名前の由来は「出来損ない」を意味する…と、映画・舞台版では開設されるのだが、実はディズニーのミスリードで、Quasi modo geniti infantes(生まれたばかりの赤子のように)というミサ曲(当然ラテン語)の歌いだしから取られている激エモネームである。拾った日がその歌を歌う祝日だったそうだ。オタクの名づけだ。(名付け&育ての親は後述するフロローくん)
エスメラルダ(後述)と出会って人の優しさに触れ、恋をする。

フロローの画像です。
画面が暗くて人物が見づらい。鐘付き堂だからしょうがない。

フロローくん
今作のヴィランだ。厳格な大聖堂の助祭長である。「助」祭長なのでノートルダムのNo.2だが、No.1はバチカンから天下りで来るので、実質地元のNo.1有力者というお立場だ。異教徒であるジプシーをめちゃくちゃ迫害する。(カトリックの役職はかなりややこしいので、アニメ版ではアメリカで伝わりやすいように“判事”ということになっている。まあ、罪の裁定もやるから間違っちゃいない。)
原作では36歳という壮年設定だが、ディズニーの魔改造により、カジモドが赤子のときに大人である必要があるため、おぢにされてしまっている。
聖職者の癖に蠱惑的に踊るエスメラルダに欲情する生臭坊主で、規律や権力を着て圧政を敷く他罰的な暴君だ。

フィーバスの画像です
路地裏で踊るエスメラルダを見つけて、いいねえ…と
ちょっとやらしい目で見ている本作のイケメン枠

フィーバスくん
王室射手隊の隊長(要するに衛兵)のイケメンであり、フロローの部下っちゃ部下という立場である。映画の冒頭で舞台であるパリに異動してくる。
原作では婚約者がありながらエスメラルダに手を出し、これがかなりの「この世理不尽!!」ポイントなんだが、ディズニーは魔改造で婚約者の存在を抹消し、単なるアホっぽいジョックにした。
エスメラルダが美人なので順当に好きになるし、イケメンだし良い奴なのでちゃんと好かれる。

エスメラルダの画像です。
ディズニーには珍しいお色気系ヒロインである。

エスメラルダちゃん
ジプシーの娘。3人の男たちが恋に落ちる魔性の女。
原作では16歳の純真な小娘(ロリ)なんだが、ディズニーさんはもうちょっと上にした様子である。劇中で名曲「God Help The Outcast」を歌う。
この歌がポイントなので「Outcast(アウトカースト)」というキーワードだけでも覚えておいてほしい。
カジモドを暴動から救い出し、彼の初めての”人間の友達”になる。
フィーバスがイケメンだし良い奴なので順当に好きになる。
フロローは普通におぢだし根性曲がりだし本当にキモい。

ということで、主要キャラはこの4人。
ほかに狂言回し・歌うガーゴイル(カジモドのイマジナリーフレンド)3体と、エスメラルダちゃんのペットのかわいいヤギちゃんと、アンサンブルたくさん(街の人やらノートルダム寺院の石像やらジプシーの仲間たちやら)が出てきます。
ちなみに、歌うガーゴイルたちは子供向け映画要員で、この3体がメイン取って歌う愉快な曲が舞台版ではカットされてしまっている。重厚なストーリー中にいきなり陽気な曲歌うわけにもいかないんだろうが、ちょっとさみしい。

ざっくりどんな話?

When :15世紀後記(1482年とされている)
Where :パリのノートルダム大聖堂(再建がんばれ)周辺で
Who :先述の3人の男たちが
What :みんなエスメラルダに恋をする。
それだけの話。
で、原作ではなんだかんだみんな死ぬ。ユゴーはいつもそう。

ユゴーの原作ではどうなる…?

  1. フロローは大聖堂の向かいで奇形の捨て子を拾います。拾った日がカジモドという祝日(復活節第2主日)だったので、それをそのまま名前につけて、人目につかない鐘付き堂で飼うことにしました。
    うーん、扱いがもう人間じゃなくて犬なんだよな。

  2. そんなことがあって20年後のある日、ジプシーの娘エスメラルダが街で踊っています。

  3. 聖職者のくせに色香にやられたフロローがエスメラルダに惚れます。生臭坊主め。

  4. クソなことに、フロローはカジモドを使ってエスメラルダを誘拐しようとしますが、カジモドは間抜けなので失敗します。
    (当時の表現では単に間抜けということになっているけど、現代の基準で考えると知能とかに問題があるのかもしれない。)

  5. 誘拐未遂犯カジモドを逮捕しにフィーバスがやってきます。助けられたエスメラルダはイケメンのフィーバスに順当に惚れます。
    フィーバスには婚約者がいますが、可愛い女が言い寄ってきたので、普通につまみ食いします。(無情)

  6. 一方、つかまったカジモドは広場でさらし者の刑になりますが、エスメラルダだけは状況に憤慨し、彼の味方になってくれました。ここではじめて人間のやさしさに触れたカジモドはエスメラルダに惚れます。

  7. エスメラルダとフィーバスが逢引しているところにフロローがやってきてフィーバスを後ろから刺殺します。

  8. フロローはフィーバス殺害の濡れ衣をエスメラルダに着せて、魔女裁判の末死刑にします。

  9. フロローは「俺の愛人になったら命は助けてやる」とエスメラルダに提案しますが、エスメラルダからすると彼ピッピの敵なのでまっぴらごめんです。エスメラルダは刑が執行されて死にます。

  10. いろいろ見ていたカジモドがフロローを塔から突き落として殺します。

  11. 数年後、処刑場を掘り起こすと、エスメラルダと思われる女性の白骨に奇形の男の白骨が寄り添っておりましたとさ。おしまい。

ユゴーさんのいつものパターン、善人悪人全員死んで、善人はまあ、天国では報われたかもね、という無情なお話なのだ。でもまあ、ディズニーは魔改造してなんとかハッピーエンドに持ち込む。かなりの寝技。無理やり。まあ、詳しくは見てくれ。90分程度の映画だ。
ちなみに…舞台版はディズニー魔改造版を踏まえた大人向け・原作よりのストーリーとなっている。これも観に行かなきゃなあ。

ディズニーによる魔改造

ディズニー版ノートルダムの鐘の裏テーマ

ディズニー版ノートルダムの裏テーマは...

陰キャのめざめ
背景のジャガイモはインカのめざめです。甘味が強いんだ。

んなわけないって?まあ聞いてくれ。

参考:アメリカのスクールカースト

アメリカのスクールカースト
アメリカのスクールカーストを現した図

Q.アメリカのスクールカーストを考えた時、90年代にディズニースタジオで働く人たちの青春はどんなものだったろうか...?
⇒どう考えてもGeek(オタク)である。めちゃめちゃ3軍だ。
ということは...クラスでの人権がないOutcastなんだ。
ノートルダムの鐘は、OutcastであるGeekが人権を取り戻すお話です。

基本的人権(建前)と社会的人権(造語・本音)

基本的人権は、全ての人に生まれながらに平等にある権利だ。
すべての人は生きていることそれ自体を肯定され、尊ばれるものである。
これは間違いない。ただ、綺麗ごとだ。
こうあるべしというガイドラインは崇高だがそのまま社会に適用され人類ひとりひとりの心に染みわたり、お互いが思いやりをもって地球が回っているかというと、実際はそうはならない。
現実は理不尽で、無情なのだ。

社会的人権、これは基本的人権に対して作った私の造語だが、人権という言葉がスラング的に使われるときはこっちの意味であることが多いと思う。
要するに、社会・コミュニティの中で自分を否定されることを恐れずにのびのびと生きる権利のことだ。
こう書いてみると、心理的安全性の中で生存する権利かもしれない。

社会的人権は、顔とスタイルと運動神経とセンスのいい金持ちの定型発達のコミュ強にしか満足に与えられないものなのだ。
(ここで実際のプレゼンでは「おいやめとけ!」と複数人からヤジが入ったので、そう思った皆さんの感覚は正常である。)

一方で、欠けている部分を補って余りある才能を発揮すれば、ワンチャン返り咲いて英雄になれるかもしれない。
ただし、社会的無人権者はモテない。こればっかりはしょうがない。

結局女なんてもんは思わせぶりに優しくして俺たちのテンションだけあげやがって...。俺のこと褒めてその気にさせたくせに頭悪い顔だけの野郎に持っていかれるんだ、いやまあ、あいつは性格もいいけど、そりゃその見た目でまっすぐ育てばいい奴になるに決まってるだろチクショウ俺だってあの顔に生まれて周りに愛されて生きていればもっと素直になれたかもしれないのにクソクソクソ。。。。

これがディズニーの考えたレ・ミゼラブル(無情)なのだ。

ディズニーが至った結論(=救い):才能は個性に宿る


天使が僕にという曲のスクリーンショットです。
エスメラルダの優しさに触れて、初めての恋心を歌うシーン。
おもむろに木片を削り出し…
天使が僕にのスクリーンショット②です。
エスメラルダのフィギュアが完成!もともとあった自分のフィギュアと並べている。

カジモドは木彫りで街のジオラマを作るクリエーターなのだ。住人のフィギュアまで一人ひとり作っている。仕事は鐘つきなので完全に趣味で、要するにオタク趣味の隠キャ青年なのだ。

鐘付き堂から見下ろした精巧な街のジオラマと木彫りの人形たちに感心するエスメラルダ


これを見たエスメラルダはその精巧な作りや観察眼、デフォルメのユニークさに感動する。カジモドはフロロー以外に初めて交流した他者に個性や才能を認められ、自分を愛せるようになったのだ。
要するにオタクに優しいギャルに出会って、救われちゃったのである。

結果として、そもそもハンデがあるんだからどだいハマれやしない「正しい人間の型」にはまることを強いる大人や社会から解放され、毒親フロローに反抗し、最終的に街の英雄となる。
…とまあ、こういうかなり寝技のハッピーエンドなのである。詳しいことは映画を見てくれ。

ユゴーの断罪とディズニーの救いの比較

原作はカジモドをイエス・キリストとして描いている

原作のカジモドは出生が不明で、完全に無垢なるものとして登場する。名前も「生まれたばかりの赤子のように」の略であるという徹底ぶりだ。子供時代はまず「フロローへの試練」として機能する。奇形でさらに知的?発達?障害があるため、そもそも生活が不便なのに、これを忌み嫌ったフロローに鐘撞小屋に幽閉されている。制限行為能力者扱いを超えて意思能力のない者として扱われている。
…まあ、当時はそんなものかも知れない。当時は「障害者は罰を与えられている」という考え方なので、フロローが自らの好みの問題でつらく当たっていたわけでもなく、罪人に清貧な暮らしをさせることで罪を濯ぐことを狙っていたのかもしれず、一般的な基準に照らしておかしいかというとそうでも無いのかもしれない。人権の考え方が成立する以前の話を、人権の考え方ができたばっかりの時代(1831年)に書いたものなんだから仕方がない。そのころの人権はシトワイヤン(市民の男性形)だけにあって、シトワイエンヌ(同女性形)にはなかったんだから、女性だって制限行為能力者扱いされてたんだもんな。原作エスメラルダがロリで、世の理不尽に翻弄しかされていなくて胸糞なのはこういう時代的背景もあるんだ。
話をカジモドの話に戻そう。
まあ、少なくとも、罪人扱いは人間扱いではないので、辛いのである。受難だ。

さて、カジモドの受難はエスメラルダ登場までフロローの傲慢さの犠牲となることのみで済んでいるが、フロローが色に狂ってからは罪の手段として使われる。エスメラルダを攫うなどの犯行を肩代わりするのだ。十字架の贖罪に重なる。ゴルコタの丘かな?
なお、エスメラルダの魔性がフロローを罪へいざなってしまうのは、アダムがリンゴ食ったのはイブが唆したせい事件が重なるが、この辺もユゴーのキモさ…いや、これは聖書に書いてあるんだから普遍的な人類のキモさだな、ごめんユゴーさん。
で、最終的には、フロローを塔から突き落とし、断罪することで最後の審判も下すという、徹底した天界からの遣いがカジモドなのだ。

ディズニー版はエスメラルダを聖母マリアとして描いている

しかし、ディズニー版のカジモドは主人公であり抑圧から解放されるヒロインである。神枠はどこに行ったのかというと、エスメラルダにお鉢が回ってきた。この論拠となるのがエスメラルダのソロ曲「God Help The Outcast」の歌詞である。英語詞を日本語訳してみた。
これはエスメラルダが聖堂に逃げ込んだ際、司祭からマリア様(Notre-Dameその人)に祈ってみろと言われ、異教徒の立場から、祭壇の聖母マリアに語り掛けているものである。

あなたに聞こえてるんだか知らないし、そもそも存在するのかもわかんないし、異教徒の祈りなんか聞いてくれないかもしれないんだけどさ。
あたしはのけ者(outcast)で、あなたに話しかけちゃいけない立場だと思うんだけど、あなたも生きてるときはそう(outcast)じゃなかった?
神様がoutcastを助けるのよ。生まれた時から飢えてるの。
この世に慈悲なんてないんだと思ってるんだから。
あたしの仲間を助けてよ。
あたし達、これでも祈ってるの。
あなたが助けてくれなかったら、たぶん誰も助けてくれないんだわ。

(アンサンブル)富と名声と栄光と輝きと愛と神と御遣いの祝福を私に!

あたしはいいの。なんとかなる。
でも周りには不運な人たちがめちゃくちゃいるの。
貧しくて、抑圧された仲間たちをたすけてよ。
みんな神様の子供だと思うんだけど、ちがったかしら。
神様助けて。みんなあなたの子なんだから。

God Help The Outcastの歌詞を日本語訳したもの(訳者:画龍)

自身ではなく仲間を助けてほしいと歌うエスメラルダ、キリスト教が一番尊ぶ精神、いわゆる自己犠牲(sacrifice)の心を異教徒ながらに持ち合わせているのだ。悪を嫌い、正義を愛する正しい心の持ち主なので、劇中の祭でカジモドが迫害される理不尽にも徹底的に抵抗する。異教徒でありながら、本質的に非常に正しく、優しい女なのだ。だからこそカジモドを救済する。しかも彼女はジプシー、アメリカ人が何よりも大切にする自由を尊ぶ女である。
原作のカジモドが演じる天からの遣い役を、本作ではエスメラルダが演じて、さらに優しい聖母になってしまっているのだ。うーん、ポジティブ。
これこそ、ノートルダム(私たちの貴婦人)である。ディズニーは単にパリに実在する大聖堂という意味だけでなく、原義である聖母マリアの本質も描こうとしたのだ。

…とはいえ、うーん…。
魔性の女に聖母マリア属性(母性・聖性のハイブリッド)を付けてしまう陰キャオタクの性(saga)が出ていて絶妙にキモい!!!(ほめている)
ぼくのかんがえたさいきょうのヒロインってやつだ。
福山雅治の「化身」という歌の歌詞もこんな感じなんだよな。曲がゴリゴリにカッコいいロックなのに歌詞がめちゃくちゃキモい(ほめている。私はこの歌も好きだ。)…やっぱりキモいのって、人類みんななのかもしれない。

ということで、ユゴーの書いたノートルダム・ド・パリらしさである「現実世界の無情さ」と「キリスト教的ホーリネス」を両方兼ね備えて、かつ寝技でハッピーエンドにした作品なのだ。
オタク諸君、俺たちの映画だぞ。見てくれ。

ということで、意識高くノートルダムの鐘を紹介してみた。
なぜ自らオタクでありながら、こんなにオタクくんをボロクソ言いながら紹介するプレゼンを作ってしまったのかという話は、個人的な話になるのでいつか別の機会にしようと思う。


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