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「SEKKAKU」#272(2023/11/26)





父親がかなり「バナナマンのせっかくグルメ‼︎」が好きだ。




最近の口癖が「せっかくグルメの曲ってさ、サブスクにあるのかな」になるくらいには好きだ。




たぶん、ない。




今日はじめて自分もちゃんと観て驚いたけど、日村はボードに書かれて指示された食べ物しか食べられないシステムだった。




ここで問いかけたい。




日村、それでいいのか。




見知らぬ土地の道すがら出会った見知らぬ人物、それは日村の瞳にはどう映るか。




「母親」である。だれしも経験する幼少期、未だかつて母親の思惑以上の食べ物が食卓に並ぶことがあっただろうか。




母親だけが献立に関わっている、という考え方は古い!!と怒りを露わにする人もいるだろう。しかしここで言う「母親」はもっと大いなる存在を意味していることを理解してもらいたい。





別に「父親」でも「兄弟」でも、「育ての親」とか「でかい狼」とかでも良いのだ。




まだ自らの自我が発達していないその頃、私たちはその「大いなる存在」からの提供を待つしかなかった。口をただ開いて、親鳥を待つ雛鳥にすぎなかったのだ。




日村が旅先で出会った見知らぬ人物が、気持ち程度その地域の風土に訛らせた口調で「せっかくグルメ」を紹介する。




私が今回観た回ではラーメン屋さんを紹介されたが、ボードに「チャーシューとおつまみネギ」としか書かれていなかったため、ラーメン屋で"チャーシューとおつまみネギ"のみを平らげた後日村は「ラーメン食べてぇ〜〜」と叫んでいた。





日村、それでいいのか。




貴方は今、少し訛った他人が「親鳥」になっているのだ。




そして貴方は「雛鳥」なんて気楽なものではない。雛鳥よりもよっぽどか働いているし、動く、走る。車や電車も使って、親鳥を探すのだ。





まだ顔も分からぬ幾千もの親鳥に、胃袋を掴まれ振り回されている……




「せっかく」って、なんだろう。







「せっかく(ここまできたんだから食べていきなさいよ、の)グルメ」のコンセプトだが、少し違うと思う。





「せっかく(ここまで来た、というある種の努力を、私たちが与えるもので成果としなさい、の)グルメ」である。




日村、どうする。




ある日、そのボードに、大きな筆で「タモリの頭蓋」とか書かれたらどうする。




急いでMステのスタジオへ走るか。タモリを仕留めるのか。タモリがバトルアックスを持っていたらどうする。自前の大剣で応戦するのか。その階段で、サンプラザ中野くんが転落したその階段で、応戦するのか。




その努力は「せっかく」と呼べようか。





日村、もう一度考えてみて欲しい。




もう貴方の希望は神田愛花その人だけかもしれない。





それでも、ボードを突き破って、「今日はカップ焼きそばを食べます」と言い放つ姿を神田愛花は待っている。その時光り輝いた全身はまさに「バナナマン」そのものだろう。






設楽「日村さんもう帰ってきなよ〜」






わたしたちは待っています


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