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20220408

日記を書きたい。柿内正午さんの「プルーストを読む生活」をfuzkueで読んで、そう思ってから数週間たって、まだ僕は日記を書かない。重い腰が上がらない。

そんな中、昨夜、レオス・カラックスの新作の「アネット」を観て、久々にこうして文章を書き始めた。アネットはとてもつもなく楽しいが、何の映画か?と聞かれるとうまく答えられない。

「ミュージカル」だなんて簡単にくくれる映画ではない。ロックオペラ?なんだそりゃ。アダム・ドライバーを「コメディアン」だなんて括ることはできないように。

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コンテンツに慣れすぎた僕らは、すぐにモノゴトを(そして自分でさえ)、タグ付けやカテゴリ分けしようとする。アネットはそんなことを許さない。その意味で、コンテンツ全盛期の現代へのカウンターカルチャーであり、私たちへの宣戦布告だ。

コンテンツという言葉があまりにも嫌いな僕にとって、僕がやりたかったのはまさにコレだと思った。そして、ようやく文章を、日記を、書き始めた。

filmarksに一瞬はまったが、もう飽き始めている。映画をコンテンツとして消費しているように感じたのだ。「コンテンツ」は、タイトル・固有名詞が起点となる。映画を観ているときに、marksになんて書こうか、SNSで何て投稿しようかなんて脳内に思い浮かんでいる時に、コンテンツ思考に毒された自分の脳に辟易とする。

日記がいいのは、ただ思ったことを脈絡もなく書けるからだ。ひとつの文章の中に映画の話も酒の話も恋愛の話も仕事の話も続けて書くことが日記と言う形態においては許されるのだ。それはアネットが何についての映画かわからないのと同じだ。「ドライブ・マイ・カー」について何の映画?と聞かれて「車を運転する映画だ」と答える人はいないだろう。それは人生と全く同じだ。

僕が主人公の日記に、固有名詞はあくまで登場するだけだ。固有名詞が主役なんかでは断じて無い。

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