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「何でもかんでもそれなりに出来るわたし」は大人になれない

最近アップしていた旅の記事たちは、
次にそこにいく人たちの参考になれば
って意味も込めて書いていたんだけど、


日々思っていることを書き留めたい、
という気持ちもあってnoteを始めたので
今回はそんなのを。


タイトル通り、
「何でもかんでもそれなりに出来るわたし」は
もう辞めなければいけないのではないかと
退職とその後2ヶ月で思ったというお話。


***

わたしは、小学校から高校まで
いわゆる「優等生」として生きてきた。


いい成績が取れるための適切な努力の仕方を知っていたし、
どういう回答や振る舞いが評価されるかも知っていた。


小6の時にはオール「大変よく出来ました」、
中3の時にはオール5を取るような子どもだった。


大学時代は学業はあまり力を入れていなかったけど、
ボランティアのサークル活動(NPO法人)ではリーダーとして、
プロジェクトや経理の仕事に取り組んだ。
分からないことも多かったけど、新しいことを吸収して
それなりに上手くやっていたと思う。


どんな勉強や仕事が降ってきても、
それ相応の対応をして成果を出す。
自分は優秀な人間に近づけている、その自負があった。


中学校くらいまでは無意識下でしていた優等生も、
高校、大学と周りの景色が見えるようになってきてからは
ある種の義務感・使命感で、
わたしは優秀でなければいけない、
それがわたしの価値だと思うようになっていた。

*

しかし厳密に言うと何かで「1番」になれることは少ない。


中学校の時、得意で好きだった美術も、
その後夢中になった英語も、広い世界に行けば
私より出来る人なんて腐るほどいて失望した。


途中までは都合よく目を瞑っていたが、
わたしは飛び抜けた何かを
持っているわけではないのだと徐々に自覚し始めた。


それでも得意な美術や英語以外にも、
経理とか、PCスキルとか、書道とか、水泳とか
それなりに出来ることは幅広くあったし、
これから何かを新しく初めても、
それなりに上手く出来る自信があった。


何かに特化はしてないけど、
「何でもかんでもそれなりに出来る」のがわたしだし、
それこそがわたしが思う ’優秀さ’ であり、
わたしの価値だと府に落ちたところで学生時代が終わった。

**


就職先は一番先に内定をもらったところ。
自分が成し遂げたいことに近い気がしたし、
どこに行っても大きな差はないだろう、
「何でもかんでもそれなりに出来るわたし」なんだから
どんな内容だってだいたい大丈夫、
細かいところまで気にする必要はないと思っていた。


一つ目の職場。
うまく成果が出ない時期は多少違和感を感じていたけれど、
それなりに上手くは動けていたと思う。
少しずつ軌道に乗ってきたところで
全く違う領域の事業部へ転勤の打診が来た。


まだ何も成し遂げた感はなかったし、
新しい部署は自分のやりたいことと
ちょっとズレてる予感はしていた。
でももしかしたら面白いかもしれないし、
地元に戻れる機会だったので
明るい兆しがあるかなと思って快諾した。


やはり「何でもかんでもそれなりに出来るわたし」だから、
何だって大丈夫だろう、大丈夫にしてみせなくちゃ
と思っていたところがあったと思う。


しかしいざ転勤してみると、やっていることも、
やり方も、一緒にやっている人も何もかも納得できない。
ほとんど一度も楽しい、
やりがいがあると思えることがない日々だった。


しばらくもがいてみたが
続けていく理由と心の余裕が見出せず、
転勤から半年と少し、わたしは仕事を辞めた。

*


辞めたいと思い始めてから半年くらいあったのだが、
すぐに決断して動けなかった理由の一つは、
やはりどうにか「何でもかんでも出来るわたし」
でありたかったから、だと思う。
好きじゃないと感じたことでも、
大丈夫大丈夫、と言い聞かせて頑張ろうとしていた。


でも、「何でもかんでもそれなりに出来るわたし」は
どんな舞台でも演じきれはしなかった。

**


子どもの時は、その後の進路により多くの可能性を残すために
「何でも出来ること」に価値があったんではないかと思う。


英語しか出来ないより、5教科全て出来た方が
どんな配点の受験校にも対応できる。


政治にしか興味がないより、経済にも興味があった方が
単位が取れる授業の幅が広がる。


運動しか出来ないより、勉強も出来た方が
将来先生になりたいとか、
ビジネスマンになりたいと思った時に軌道修正しやすい。


でも、わたしたちはもう大人だ。


嫌いな数学で5を取って褒めてくれる先生も、
いっぱい単位取って優位に浸れるクラスメイトも、
ひょんなことから体育教師を目指す未来も、無い。


可能性で自分の地図を広げている段階ではなくて、
この足でその地図上の1つの道を歩いている段階なのだ。


だからもう、子どもの時ほど
「何でも出来ること」に価値はない、そう思う。


おまけに時間もない。
子どもの時間も無限だったわけではないが、
歳を取るに連れて時間の経過は
早く感じるようになってくるし、
本業以外にも、副業・趣味・住居・
パートナー・長期的なライフプランなど
これでもかというほどの量と規模の選択をして、
進んでいかなければならなくなる。


そんな中で、悠長に「何でもかんでも」
やっている暇はないのだ。


・やりたくない
・やりたくない気がする
・合わない
・合ってない気がする


そんなことはやらなくていい。

もう苦手だった体育を、
自分の可能性を広げるためにと頑張らなくていいんだ。


もう「何でもかんでも出来るわたし」じゃなくていい。


好きなこと、やりたいと思えること、
(たまには、それらを叶えるためにやらなければいけないこと)が
「出来る」わたしであったらいいんだ、そう思った。


***   ***   ***   ***   ***   ***


ちょっと誇張した部分もあったかもしれないけど、
嫌なことが頑張れなくて辞めた前職、
いろんなことに挑戦してみようと思って
ちょこちょこ試してみたここ数ヶ月を踏まえて思ったことでした。


何だか肩の荷が降りた気がした。素直になりたくなった。


もちろんわたしはまだ「若い」とされる年齢なので
まだまだいろんな可能性はあるのかもしれないけど、
何でもかんでも手を出していたらキリがないし
気付いたら、あれ・・これわたしやりたいことだった・・?
ってことになりかねないなと思ったのもあって。


周りの目は気にせずに、
やりたいことを純粋にやって、極めていこうー!!

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