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書評 流転の海

恐ろしい小説

以前友人に勧められ、お前さんがどんな感想を抱くのか聞きたいと言われていた小説を、ようやく読んだ。

一言で言えば「恐ろしい」だった。

主人公の名は「松坂熊吾」。飢えた熊のような印象を抱かせる50歳の男である。

時は昭和22年の大阪。戦前は乗用車やトラックの車両とか、ベアリングなどを輸出する事業を展開し、御堂筋の一等地にビルを持っていたほどであるが、今目の前にあるのは自分のビルではない。ビルは戦火で焼け落ち、闇市のバラックが立ち並んでいる。

再びここにビルを建ててやると、事業再建に闘志を燃やし、戦争で失った友を想い帰路につく。家についた時、干されている何枚ものおむつが見えた。予定よりも25日早く子供が生まれたのだ。松坂熊吾、50歳にして初めての子供であった。

飢えた熊のごとき男が、はじめて血を分けた我が子を得た時、胸の奥から疼くようなものが湧いてくるのを感じた。予定より25日も早く、未熟児として生まれたこの子が、20歳になるまで生きているだろうか。いや、そもそもまともに食料も手に入らないこの時代で、無事に20歳まで育つだろうか。いいや、育たせるし、生きてやると、思いを新たに松坂熊吾は歩みだす。

こう見ると立身出世物語に読めようが、そんな事はない。描かれるのは人間である。己の弱さを何とか騙して、幸せになろうとしている人間である。

登場人物たちは、とにかく騙す。裏切る。嘘をつく。または、騙されて、裏切られて、嘘をつかれる。騙す対象は相手だけでなく、自分自身にも嘘をついて騙し、裏切る。俺は強い人間なのだとか、不幸な人間なのだとか、冷たい人間なのだとか、そういって、目の前の苦境だったり、未来への不安だったりを『騙そうと』している。一つ前の章では、涙を流して、観念して本音を吐露したと思ったら、次の章では、あれは嘘で、実はこうこう、こういう理由が本音だったんだと話し出す。または、あの時はそう思ったが、一晩寝たら考えが変わったのだとかが沢山あって、これで一安心出来るとか、そんな事は一切ない。メタの視点で言われたことが、あっという間にメタの視点で否定されるのだ。

絶対に一筋縄の人間を出したりはしまいという、著者の強い意志を感じる。人間はみな利己的なところがあって、それがどう出るかの違いしかなく、出方がたまたま良い結果を生んでいる場合のみが生き残っているに過ぎないのだ。

事実、著者はこういう裏を考える事が出来ている。著者たる私がこう考えられること自体が、人間が悪徳をはらんでいる泥のような存在であることの何よりの証明ではないか。ある善行が、視点を変えれば悪行になる。善意を悪意で解されれても同じ結果になるのだ。乞食同然の人を助けるために、主人公夫妻がとった行いは、相手にとっては嫌悪と憎悪と嫉妬を掻き立てる結果にしかならなかったのだ・・・と言わんばかりに、とにかく人の裏側を書きなぐる。矛盾に満ちた人間という存在を、視点を変えながら書き続ける。

戦中戦後の動乱と混乱で、人心が疲弊していたらこう考えるのだ、という時代背景を言い訳にせず、とにかく考えられるだけの不幸を考え、その不幸を乗り越えるための嘘や騙しや裏切りを書き、読者に「いかがでっしゃろ?」と見せつけるのだ。

著者は何故こんなにも、成功とか、幸せとかを書こうとしないのか。色々な不幸と悲しい嘘を書き続けて、著者は疲れたりしないのかと不思議に思うほど、嘘と騙しの因果が積み重なっていく。推理小説の伏線よりわかりやすく、それでいて大量に伏線がはられていく。それでいて、話は何故か重苦しくならず、一種の爽快感すら得られるほどに進んでいくのだ。その時、私は初めて、小説に対して「恐ろしい」と思った。

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