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【小説】駆けて!ホンマチ⑤

空腹時の急な全力疾走、猛烈な蒸し暑さ、初めて訪れた場所であるが故に無意識に宿っていた緊張感が重なったせいだろう。めまいからの立ち直りに時間を要したのは。

 ほんの一瞬だけ意識を失っていたのかもしれない。長い眠りについていたかのような錯覚も覚えるが、しゃがみ込んでいた身体をゆっくりと起こして立ち上がる。


 唖然とする以外ない。

 徐々にクリアになった眼前の光景に、思わず息を呑む。本町商店街が少し左に折れた先に、こんな別世界が拡がっていたことに目を疑った。


 パン屋さん、呉服店、かばん屋さんに自転車屋さん。通りの両側を窮屈そうにして店舗がひしめき合っている。その先にもずっと色々なお店が並んでいるのが見える。

 どこから来たのか、いつの間にかたくさんの人たちが歩いている。半ズボン姿の元気な男の子たちが走りぬけ、それを「危ねえな、クソガキ!」と怒鳴る大人。聞こえてくる会話の言葉遣いは、少し乱暴な印象だ。

 若い人たちも多い。男の人の風変わりな髪形が目立つ。強い整髪料を使っているのか、髪の毛を撫で付けている人が多い。チリチリに縮んだパーマをかけているヘアースタイルには目が釘付けになり、その迫力に度肝を抜かされる。女の人たちは、カラフルな配色の服が目にも鮮やかだ。スカートの丈も短い。膝から下の裾がラッパのように広がっていくズボンを穿いている人もいる。

 それにしても、何て個性的なんだろう。蟹江町は文化が違うのだろうかと疑いたくなる。


 でも、何だろう、この高揚感は。


 熱気が充満しているというか、精力的というか、元気さが溢れている。ここにいる人たちの一人ひとりから大きなエネルギーを感じる。商店街全体から発散される強い勢いに圧倒される。

 今までの寂しさは一体何だったのだろうか。一人でここまで来た甲斐があったというものだ。何て面白い所だろう。


 私は夢中で商店街の様子をスマホのカメラに収めた。おばあちゃんの喜ぶ顔が目に浮かぶ。思わぬ大収穫に狂喜乱舞すると同時に、次回は是非おばあちゃんを連れてこようと心に決めた。


 まるで昭和の最盛期を感じさせる商店街の雰囲気に、足取りも軽やかになる。歩き始めて程なくすると、強烈に食欲をかき立てられる香りが、私の貪欲な鼻腔を刺激し始めた。私をおびき寄せるのは『ドレミ亭』という看板が掲げられたお好み焼き屋さんだ。鉄板の上で焼けるソースの香ばしさが私を手招きしている。その誘惑に私は到底勝ち目はない。ここでゆっくりと熱々のイカ入りお好み焼きを味わいたいのは山々だが、この楽しい本町商店街を早く見て回りたい。好都合なことに、みたらし団子もメニューにあるのでテイクアウトをしようと、店先の列に並ぶ。

 ところが私の直前に並んでいた人が、みたらし団子を10本注文し、ヒーター付きの保温庫のストックがなくなってしまった。「すぐ焼くで、そこで座って待っとってね」と、派手な花柄エプロンのおばさんに促される。食堂のテーブルに備え付けてあるような椅子が二脚、通りを向いて置かれていた。

 椅子に腰掛けながらの商店街の風景も悪くない。ミラーレス一眼の表現力を存分に発揮するチャンスを棒に振ったことを心底後悔しながら、スマホのカメラを向ける。


 その私の手から、スマホがひったくられる事態が起ころうとは予測のしようがなかった。

 いかにも柄の悪そうな四人組が、いつの間にか近寄ってきていたことに、鈍感で無防備な私は全く気付けなかったのだ

「何だこれ?カメラか?」

 私のか弱い手から強引にスマホを奪い取ったリーダー格らしき男が、くわえ煙草のまま物珍しそうに画面を眺めている。「返してください!」という訴えなど聞こえていないかのように、とれかけたパーマ頭の男は乱雑に私のスマホを触りまくっている。間抜けなことに、触っているうちに自分でボタンを押して電源をオフにしたようで、真っ暗になった画面に苛立っている様子だ。

「ちっ、なんだこれ。おいトシ、こりゃ一体何だ?」

 そう言って一番年下に見える男に手渡した。二十歳くらいだろうか。髪をオールバックにしているその男は、興味深そうに何度も360度回転させながら細々と観察したあと、ぎょろりと私を見つめた。

 その鋭い眼光にドキリとした。恐怖の感情以外の何かを覚えたが、それが何なのかを確かめる余裕などなかった。

 すると、男はゆっくりと私にスマホを差し出し、返してくれた。私をじっと見つめたまま。そしてリーダー格の男にこう言った。

「舶来品の安いおもちゃだ。何の価値もない」

 それを聞くと、四人組は鼻で笑いながら私から離れていった。

 離れ際に憎まれ口まで叩かれた。

「何だ、そのおかしなマスク」

「リュックサックなんか背負って、今日は遠足か」


 何とか事なきを得たが、変な連中にからまれた私は体の震えが止まらない。

 それにしても、今のは一体何だったのだろうか。いくらなんでもスマホの存在を知らないなんて、この現代ではあり得ない。からかわれただけなのだろうか。それとも新手のナンパなのか。いや、そんなはずはないか。

 混乱している気持ちを落ち着かせるために、マイボトルのお茶を口に含ませる。喉もカラカラに乾いた。

 マスクを下ろしてはっとした。こんなことを今頃になって気付く私に我ながら呆れた。将来大物になる器なのかもしれない。いや、そんな悠長なことを言っている場合でないのだ。今、私が見ているこの光景は現実だ。間違いない。でも、こんなの現実にはあり得ない。あってはいけない。


 誰一人としてマスクをしている人がいないのだ。


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