見出し画像

【小説】駆けて!ホンマチ⑥

新型コロナウイルスの感染が拡大した去年の2月末。『全国一斉休校』という措置が採られ、中学3年だった私たちは受験、卒業、入学といった一連の重大行事を、大きな不安と共に過ごした。

 4月に入ると『緊急事態宣言』が発令され、生活が一変した。不要不急の外出や密を避ける行動に努めた。経済は停滞し、観光業や飲食業への影響は計り知れない事態へと陥っていった。

 医療機関は逼迫し、医療従事者の過酷な労働環境も大きな問題となった。

 無観客でのプロスポーツの試合。東京オリンピックも延期。

 テレビ番組の出演者は自宅からのリモートという形式が多くなり、その画像の粗さや通信回線の不具合に、観ている側は辟易とする。テレビドラマの収録も中断し、前回の再放送を観せらても新鮮味などあるはずがない。

 ソーシャルディスタンス、ズーム、巣ごもり。そんな言葉が連日テレビから聞こえてくる日常が、今も続いている。

 ワクチンの摂取率が低迷の一途を辿っている名古屋市。行政側の苦し紛れな弁明の様子も、今や定番のニュースだ。


 去年はマスクが不足している時期もあった。店頭の売り場からマスクは消え、我が家でも貴重で限りある存在となり、それはそれは丁寧に扱ったものだ。

 当初は面倒に感じていたマスク生活も、今となっては体の一部と化したかのように馴染んだ感さえある。


 そんな日常生活に欠かせない存在となったマスクを、この蟹江町の住民は例外なく誰一人していないのだ。余りの非常識さに腹立たしさを通り越し、呆気に取られる。

 斜向かいの電器屋さんでは店主が大声で新商品の売込みをしている。もちろんマスクなしだが、誰も注意しないし、気にも留めていないようだ。

『札幌オリンピックは日立のキドカラー!』

『ナショナルのパナカラー出血大特価』

 店頭にはそんなポスターやポップが踊っている。どうやらテレビ販売用の広告らしい。ナショナルってどこのメーカーなのだろうか。オリンピックは札幌なわけがない。一年遅れで開催する東京オリンピックは来週末から始まるのだ。

 展示してある丸っこい画面のテレビの本体は木製のようで、下に4本の脚がついている。さながら昭和レトロな佇まいで可愛らしい。


「はい、お待たせ。みたらし一本ね!」

 花柄エプロンの恰幅のいいおばさんの大きな声がした。お待ちかねのみたらし団子がやってきた。

 ノーマスクの商店街を食べながら歩くのは危険なので、このまま椅子に座ったままいただくことにした。もっちりとした団子の食感と甘いたれとの絶妙なコンビネーションに酔いしれる。ここの味は絶品だ。

 ぺろりと平らげた私は、この本町商店街を一回りしてからイカ入りのお好み焼きを食べに、このドレミ亭に戻ってこようと心に誓い、「ごちそうさまでした」と立ち上がる。


 日曜日なので銀行は閉まっている。『東海銀行』という馴染みのない行名に首を傾げる。映画館の看板は手書きのアート作品のような印象で、その完成度の高さに思わず足を止めた。『小さな恋のメロディー』という題名で、可愛らしい男の子と女の子が優しいタッチで描かれている。

 楽器店から漏れてくる音楽はテレビ番組で見たことのある大昔の歌だ。店内では珍しいことに、大量のレコードを販売している。たくさんのポスターも貼り付けてある。知らない人ばかりだが、ベテラン歌手の名前も見つけた。『五木ひろし』『小柳ルミ子』『森進一』どれも、すごく若い頃の写真ばかりだ。私は物珍しい店内を覗いてみることにした。昭和の時代をモチーフにしたかのような店作りに感心する。

 常連客と思しき若い男性が店主と交える雑談の内容が、自然と耳に入ってきた。

「牛乳屋の政さんが、今日名古屋場所を観にいくらしいぜ」

「そうかい。玉の海が調子いいな。ここまで全勝は一人だけだろ」

「貴ノ花は誰が相手なんだ?」

「ああ、ちょっと待てよ」

 店主はそう言って傍らに置いてあった新聞を手に取った。

「ええと、ああ、大受だいじゅだな。今場所は調子悪いで勝てるだろ」

「そうか。ところでさ親父、今晩の洋画は何をやる?」

 店主は新聞紙をバサバサと閉じ、テレビ欄の文字を老眼鏡をずらしながら指で追っていた。気の短そうな常連客は店主のもたつく素振りに我慢できず、新聞紙を奪い取って自分でテレビ欄を確認した。

「なんだ、マカロニかあ。だったらラブラブショーでも見るかな」

 そう言うと、常連客は折畳んだ新聞紙を雑に放り投げて店を出ていった。放り投げられた新聞はカウンターの端から滑り落ちて私の足元へパサリと着地した。

 私はそれを拾い上げる。お馴染みの中日新聞ではあるが、字が物凄く小さい。その一面の見出しには『名古屋発ピンポン外交また一歩前進』とある。気に留めたことのないニュースだ。

 ひっくり返したテレビ欄も、何やら様子が違う。キックボクシング、ドリフタ―ズ、アップダウンクイズ、アタックNo.1。ただサザエさんだけは定位置に座ってくれている。

 さっきの常連客が尋ねていた洋画は『マカロニ』なんていうタイトルではない。夜9時からの日曜洋画劇場には『続・荒野の用心棒』となっている。でも、確かに裏番組にはラブラブショーがある。

 番組名の頭にある『カラー』の表記は何なのだろうか。名古屋テレビのチャンネルが11という違和感はまだしも、中京テレビの35というのはふざけているとしか思えない。リモコンをどう操作すれば35に合わせられるのか理解に苦しむ。

 そして、新聞の上部に記された日付を見て絶句した。


 昭和46年(1971年)7月11日 日曜日。


 なるほど、これは50年前の新聞なのか。それにしては保存状態が良好だ。復刻版ということだろうか。

 いや、この新聞を見て店主と常連客は普通に会話をしていた。

 頭の中が混乱する。新聞紙を店主に手渡して、こう訊ねた。

「どうしてこんな新聞がここにあるんですか?」

 店主は受け取った新聞紙をじっと見つめると、私の顔を怪訝そうに覗き込んだ。

「今日の朝刊だ。どこの家のも一緒だろ」

 その言葉に呆然としながら、楽器店から外に出た。スマホを取り出し、画面を確認する。見慣れない『圏外』の文字が左上に表示されている。


 つまりこれは、そういうことなのか・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?