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【小説】駆けて!ホンマチ④

蟹江町本町商店街の現在の様子は、ある程度把握していたつもりだった。しかし、住宅街として生まれ変わってしまった姿を目の当たりにし、私は戸惑うばかりだった。

閉店した店舗は、やがて解体されて新しい建物が建設される。その循環がすべて完了したのが、今私がいるこの本町商店街なのだろう。つまり商店街としての機能は、とうの昔に失ってしまったことを意味している。

 これでは商店街の名残など、見つけることなど不可能なのかもしれない。私は、変わってしまったとはいえ、何処かに残っているかつての商店街の面影をカメラに収め、その写真をおばあちゃんに見せてあげるつもりでいた。その目的を果たす可能性が極めて低くなってしまったことに絶望感すら覚える。


 へこんだ気持ちは不快な蒸し暑さを増幅させる。背負っているリュックが接している背中の部分の汗が、Tシャツにべったりとへばりつく。その嫌な感触は足取りを余計に重くする。この先も同じような住宅街が続いているように見えるが、数十メートル先は少し左に角度を取っているので、その向こう側は確認できない。その先に昔の名残が残っている可能性など、今日の降水確率よりも低いのかもしれないが、とにかく歩いてみる。


 信号交差点から本町通り商店街に入った直後の右手側に、店舗跡と思われる建物が一軒だけあった。看板の類は見当たらないが、シャッターの塗装はそれほど剥げていないし、ひさしのテントは綻びもなく、まだ最近まで営業していた様子に見えなくもない。地図アプリで確認してみたところ何も表示されなかったが、一応写真に収めることにした。

 少し驚いたのは、アプリ上でこの通りが『常盤郡道』と表記されていることだ。それが正式名称なのだろう。もはや本町通りという呼び名では通用しなくなっているのかもしれない。


 地元議員が微笑みかける顔写真入りの立て看板が掲げられた鉄骨造りの住宅の奥には、立派な門構えの邸宅が見える。その向かいには『上之町公民館』があり、その出入り口の扉に青色のステッカーが貼り付けてある。何だろうと覗いてみると「この建物の入口は海抜マイナス0・8メートル 蟹江町」と書かれていた。数字部分だけが際立って大きく示されている。

 海抜がマイナスということは、今私が立っている地面が海水面よりも低いということだ。そう言われても実感が沸かないが、私の脚がどっぷりと海に浸かっているかと想像すると、恐怖を感じる。多くの住宅は水浸しだ。

 同時に、堪らなく海水浴に行きたいという感情が沸き起こってしまう。床上浸水した光景を思い浮かべた直後に、そんな想像をしてしまうのは不謹慎極まりないが、それもこの暑さで頭がやられている証拠だ。

 無論、このコロナ禍において海水浴など現実的な行動でないことはわきまえている。第一に、水着姿に自信のない私が持つべき欲求であるはずがない。


 あと数年もすれば、きっと私のポッチャリとした体型も美しく変貌を遂げ、ビーチの注目を浴びるはず。そうなる根拠はないし、そうなるために努力をするつもりもない。でもそうなっていて欲しい。

 今まで生きてきた経験上、そんな願いが叶った例は皆無だ。私という人間がいかに他力本願で怠慢な性質あるかを物語っている。

 ひとつため息をついたあと、自分の性格を嘆くためにここに来たのではないと気を取り直し、先を急ぐ。


 少し歩くと『株式会社 ヒビノ』と刻まれたステンレス製の看板が目に入った。通りに面した所は広めの駐車場になっており、その奥に社屋がある。右側の事務所の壁は青く塗られ、白い窓枠とのコントラストは避暑地のカフェのような清涼感が漂う。左側はシャッター付きの倉庫になっているようだ。

 何を営んでいる会社なのかは不明だし、その佇まいから昔の様子を伺い知ることなど不可能なので、写真を撮る対象にはならない。ただ通り過ぎる以外の選択肢はないのだが、そこで過去に感じたことのないような強い視線が私に向けられていることに気付いた。数年後にビーチで浴びるであろう想像上の視線とは、どうやら種類が違う。

 私が焦げ付きそうなほどの強烈なレーザー光線を眼から発しているのは、事務所の前にしゃがんで煙草を吸っているおじさんだ。60代であろうそのおじさんは、驚きに満ちたような顔をして私のことを見つめている。

 確かに、一人でこんな場所できょろきょろとしながら歩いている女子高生など稀有な存在なのだろう。不審な動きをしているように見えてしまったのだろうか。

 私がおじさんから目を逸らした瞬間、大声が響き渡った。

「あっ!!」

 正確には、文字で表記することができないような、声にならないような叫びだった。そのおじさんは立ち上がり、私のことをまっすぐ指差している。その目をむき出しにした表情からは、異常なほどの興奮が見て取れた。

「ま、待て!待ってくれ!」

 今度はちゃんと聞き取れる発声をして、私に近寄ってくる。グレイヘアーの見知らぬおじさんが眼鏡の奥の眼球を血走らせ、決死の形相で私を追いかけてくる。

 あまりの恐怖に蒸し暑さなど一瞬で何処かへ吹き飛んだ。

 私はあなたを知りません。この蟹江町へ来たのも初めてです。だから、あなたとは何の関係もありません。あなたに呼び止められたり、追いかけられる筋合いなどありません。私は神谷真汐という名前の高校生です。あなたはきっと誰かと私を間違えている。そう、人違いです。

 頭の中でそう考えはするものの、それを冷静に説明することなど不可能だ。それほど私の精神状態は錯乱している。

 とにかく、逃げよう。

 体育の授業でも見せないような真剣な全力疾走を実践する。脚は遅いほうではない。いくらなんでも60代のおじさんからは逃げ切れるだろう。そう願いながら必死で走った。

 初めて訪れた場所で、見知らぬおじさんから必死で逃げている。恐怖におののく私と、髪を振り乱しながら追いすがるおじさん。

 泣きそうな私は後ろを振り向く勇気もなく、スピードを緩めることも怖かった。だが、次第に体力が持続できなくなる。

 こういうときのために、運動部に所属して日頃から体力をつけておくべきだったと改めて思い知らされた。

 恐る恐る後ろを確認すると、おじさんが引き返しているのが見えた。

 一気に気が緩んだ。もう大丈夫だ。もう追ってこない。

 荒れた呼吸のまま、その恐怖を顧みた。どういう理由があって追いかけられたのだろうか。最初に考えたように人違いだったのか、それとも若い女の子を見れば、誰彼構わず追いかけてしまう狂気じみた変態なのだろうか。

 ただ、一つだけ明白になった事実がある。何も悪いことはしていないのに、人は追いかけられたら本能的に逃げる習性があるということだ。「俺は何にもしていない」「だったら何故逃げたんだ?」「そっちが追いかけてくるからだ」テレビドラマでよく見るやり取りに偽りはなかった。


 本町商店街が、少し左に角度を変える直前まで走ってきたようだ。小さな神社がある。足元に目をやると、また右の靴紐がほどけている。

 この靴紐は収縮性があり、優しく足を包んでくれるのだが、どうもほどけやすいようだ。立ち止まってしゃがみ込み、しっかりと結び直す。『ぐぅ』とお腹がなる。走ったせいもあるのか空腹感が襲ってきた。リュックに忍ばせてあるスナック菓子で小腹を満たそうかとも考えたが、おじさんの気が変わらないうちに早くこの場から離れることのほうが賢明だと判断し、先を急ぐことにする。

 立ち上がり二、三歩進んだところで、めまいがした。最近、立ちくらみを起こすことが多くなった。頭からすうっと血の気が引いていく。

 私は立ち止まった。そうすれば、めまいの症状はじきに消え、却って頭がすっきりとする。そんな感覚になる。


 だが、いつもはそうなのに、今日は違った。

 目の前が真っ暗になると脚ががくがくと震えだし、立っていられなくなった。

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