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自分のために生きる

「誰かのためになることをする」

ってのはとても高尚で、立派で、誰からも称賛されるべきことだし、それを本心からできる人はすごいと思う。

私はわりかし人あたりの良い性格をしていて、あんまり人から嫌悪感とかむけられたことなくて、逆によく相談をされるくらい人間関係には恵まれて生きてきたわけなんです。相談を受けることに喜びを感じ、相談を受ける自分に存在意義を感じ始めたのはたぶん中学生のころで、その頃から私にとって相談を受けること、ひいては人の話を聞くことは「相手が求める答えを差し出してあげる」という国語のテストに近い物を感じていて、自分の思うことを押し殺すことに徐々に慣れていったような気がする。

「彼氏が○○でホント嫌なんだよね」

って言われれば彼氏の事情とかに思いをはせながら何食わぬ顔で

「それは彼氏が悪いよ」

って返せることが普通になってきて、それが普通になってきて何にも思わなくなってきたころに学校に行けなくなったりした。

最初にも言いましたけど、誰かのためになることをするってほんと立派だしえらいしすごいし気力も体力も使うし、正しいことをしていてもひどい言葉を浴びせてくるようなやつもいるこの世の中では本当に立派だと思うんです。けど、私は人から受ける相談に対して相手がスッキリするような回答を用意してあげることに慣れすぎて、自分の感情とか、思ってることとか、好きなこととか、やりたいこととか見失ったし、それを取り戻すのにもとても苦労したし、なんなら今も練習中だし、なので、そろそろ誰かのために生きるってことをリタイアしたい。


まぁ、十数年間誰かのために生きることだけに自分の存在意義を感じていたので今更自分本位に生きるなんて怖くて仕方がないんですけどね。

習慣とか癖とかってのは気づいたころには手遅れな場合が多いし、それを直すのには倍以上の時間がかかるしとてもつらい作業なんだ。だからこそ少しの変化でも認めてあげられたら、と思うものである。

人生のリセットボタンがあったら迷いなく押すくらいやり直したい。


やり直したところでまた同じ習慣を身に着けてまた後悔するんだろうけど。

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