少年愛に関わるかどうかは別として


萩尾作品は読めるが、竹宮作品は読めないという一定の読者層に、それは両者の「優劣」(どちらが優れているか)の議論ではなく、〈少年愛〉に関わる何か根本的な差異によるもの。こういう見解を一方の著者が示した点に注目したい。もっと踏み込んだ分析を萩尾さんに望むのは状況的に筋違いで(聞けるものなら聞きたいがご本人は竹宮作品を読めないので)読者&批評家の任でしょう。

というのを読んだので、私の考えを書いておこうと思った。
私はBL好きなので、栗本薫から端を発する耽美小説等々のBLを嫌うタイプとは違うと思うので、タイプ別に考えが残るのも面白いかなと思って。

私の場合、萩尾作品は『11人いる!』『トーマの心臓』『ポーの一族』は読んでいて、竹宮作品は『風と木の歌』を数話で読まなくなったが、『地球へ…』は読んでいる…はず。
この少量の読書歴の差だけなのだけど、私は萩尾さんの作品は好きだが、竹宮さんの作品はあまりピンとこない。

萩尾さんの『トーマの心臓』がわかりやすいと思うだけど、トーマとエーリクは女の子でもかまわないし、ユーリが女の子であってもかまわない。特にトーマとエーリクは女の子の方がドラマティックだったんじゃないかな…。
少年のみの閉鎖された空間という舞台装置が機能しないので、もしも性別が逆ならというのは成り立たないといわれそうだけど、閉鎖された女学校でもいいし、山に隔離された男女共学でもよい。
なぜならユーリがエーリクの存在によりトーマの死を受け止め心を開くという話にはなんら性別が関係ないので。
萩尾さんの漫画は、私にとっては、舞台装置上でキャラクターがどう生きるかという話に思える。

竹宮さんの『風と木の詩』は少年同士で愛し合う人間を描くのが目的なので、ストーリーがあり、それに当てはまる舞台装置とキャラクターであればよいように私は感じてしまったため、読むのをやめてしまった。
多分、『地球へ…』もそうだけど、竹宮さんは描きたいストーリーをがっちり固めるタイプなんじゃないかな~。
なので、私にとっては登場人物もストーリーを見せるための舞台のように感じる。
ピンとこない、の説明はどのようにしたものかと思うけど、このように感じるのがストーリーを理解できない私には難しいのだと思う。

引用元に栗本薫さんの話が出てきたけど私は栗本薫さんの耽美小説は合わない理由が竹宮さんが合わない理由と同じなんだな…。(文体が苦手というのもあるかもだけど)
上記の差異は今でもボーイズラブにもあって、BL好きだけど合わないのはけっこうある。

どちらがよいとかでなく、単純に私の好みの問題で、年齢が変わったり知識が増えたり環境が変わったりしたら、私の感じ方も変わるものだと思う。昔は好きだったけど…みたいなパターンはあるあるだと思うの。
これが少年愛の根本的な差異に由来するのかはわからないけど、私の感じ方はそう。

でも、多分私の場合、この条件、「性愛を想起させる関係に場合に限る」だと思う。
私ガンダムWが好きなのだけど、主要登場人物が数字をもじった名前がつけられていて(理由としては書き終わるまで主人公5人は番号で書かれていたからだそう)、キャラクターはストーリーのための舞台装置なのよね。当てはまらぬ……。

書いておいてあれなんだけど、【〈少年愛〉に関わる何か根本的な差異によるもの】は私の場合好みによりますね…ってオチになってしまったな……。
また考えよう。

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