見出し画像

AIのせいで粗製濫造が生じている

などと云う向きもあるが、今日のように大勢が気軽にAIを使えるようになる以前から、人はせっせと粗製乱造に勤しんできた。

ここ十数年、お手軽計算機スマホの普及で、webはアホが書いたりヘタクソが描いたりしたあれこれで溢れ返っている。その前のPCとWebが普及したときも似たような状況で、似たような事が言われていた。
その前の、その前の、その前も。あらゆる分野で、それまでちょっと大変だった何かが気軽にできるようになったとき、だいたい粗製濫造はセットで付いてくる。
特になにか作るでもない人でも、カメラの進歩に比例してどうでもいい写真が増える現象には心当たりがあるだろう。

人の営みの内に粗製濫造が生じるのは避けられないものとして、AIを用いた粗製濫造のうち「粗製」が字義通り粗製かといえば、そうでもない。
「下手だけど」と予防線を張ってSNSに投げ込まれる本当に下手糞な絵より余程マシなピクセル群が出力されるのだから、人力の粗製よりは高品質なことは明らかだ。

濫造については否定できないが、それが悪いことかと考えてみると、これもまたそうでもない。
人類はどうにも濫造しまくる癖がある。文明の礎たる農耕からして食糧の濫造であり、都市は建築物の濫造の成果だ。その結果の繁栄は人自体の濫造とも言えるし、現代の先進国のようにちょっとくらい無能でも生きて子孫を残せる状況なら、粗製の属性も付いてくる。

粗製乱造という観点から人類とその歴史を鑑みれば、いまさらAIが粗製乱造したからといって問題はなさそうなのだが、世の中にはAI規制や極端な場合は廃絶を――ときには集団ヒステリーの様相を伴って――訴える者がいる。
それらは人々の目に理解しがたい主張と映りがちだが、それはAI自体を主軸にして解釈するからであり、粗製濫造を芯に据えれば理解は容易い。

粗製濫造は人類の得意分野の一つ、いや、特権と言ってもいい。
それがいま、AIに取って代わられようとしている。
人類のアイデンティティの拠り所が、AIによって奪われようとしている。
巷に見られるAIへの反発は、その恐怖の表れなのだ。
人とAIの争いを予見する言説を見聞きしたことのある人は多いだろうが、それは未来のことではなく、既に始まっている。

もし君がAI規制派なら、AIに打ち勝つ方法を教えよう。

先に述べたように、人類の粗製物に比してAIの粗製物は高品質になる傾向がある。
それこそがAIの弱点だ。

AIが完璧なプログラムを書いたなら、君はいいかげんなプログラムを書いてやれ。
AIより下手な絵を描いて、つまらん文章を書いて、いまいちな鼻歌を奏でてやれ。
AIで代替可能なあらゆる場面、あらゆる分野で、AIより出来の悪いものを、AIより早く、AIより多く。
AIがきちんとやってしまいそうなことを、先んじても、後出しでもいい、よりひどい結果を出してやれ。

この星の先住知性体がどういうものか。
本物の粗製乱造とはどういうことか。
思い知らせてやるがいい。