見出し画像

"君" がいるから "僕" がいる

人は元々、物事を相対的にしか見れないものだ。

昨年、デッサンを学んだ。学んだと言っても結果は残せなかったが、「デッサンとは何か」という概念やそのものの由来は、知識として学んだ。

デッサン(フランス語: dessin)、ドローイング(英語: drawing)とは、物体の形体、明暗などを平面に描画する美術の制作技法、過程、あるいは作品のこと。 (Wikipediaより)

一般的なデッサンでは、鉛筆や画用木炭で、陰影を用いて対象を描く。ただ、ここで重要なのは「陰影を用いて」ということ。

例えば、真っ白い紙を、それより大きな真っ白い紙に貼り付けたとする。とんでもなく明るい光がそれらを真正面から照らした時、おそらくその境界線は見えなくなるのだ。そうなると、デッサンでそれらを描写するのは難しくなる。

ただ、真っ白な机に真っ白な球体を置き、斜めから光を照らすとどうだろうか。それらは、陰影によって浮かび上がり、僕達は認識できるようになる。デッサンにおいて、陰影や色の数が全くないとしたら、そもそも認識できないので、描くことはできない。

デッサンにおいて境界線を線で描くことは、基本的にタブーなのだ。必ず、背景や他面との陰影(色)の差で描く。これは、人が相対的にしか物を認識できない根拠の1つになり得る。(視覚)

長々とひとつの例を示したが、説得力がないと思うので、ここから簡潔に例を示す。想像してみてほしい。( 言葉は概念の上に成り立っているものであるという前提 )

もし「味が濃い」という言葉がなければ、「味が薄い」という言葉も存在しない。「しょっぱい」「酸っぱい」という感覚がなければ、「甘い」の概念や言葉もないだろう (味覚) 。「低音」がなければ「高音」もなく、「ドの音」がわからなければ「レの音」もわからない (聴覚) 。また、「臭い匂い」がなければ「いい香り」もない (嗅覚) 。「寒い」があるから「熱い」も「ちょうどいい」もあるし、触れていない時があるからこそ、触れていることを感じる (触覚) 。

また、悪があるから正義がある。もしそれらが絶対的なものだったとしたら、誰が「正義」を掲げながら原爆を落とし、大勢の命を奪うのだろうか。犠牲になった人やその周りの人達からしたら、おそらく、悪だったはずだ。

全て、相対的だ。決して「反対」という意味ではない。僕らは常に「差」を以て何かを認識している。

中学の時の担任の先生が言っていた。
「自分の心の物差しを、人に押し付けるな。」
それぞれが、様々な経験をし、様々な感覚を持っていて、それらを物差しにして物事の "差" を測っている。

"あなた" がいなければ "わたし" はいない。

ただ、そういうものなのだ。相対的にしか物事を認識できない。人の弱さであり、天敵なのだ。だからこそ、絶対的な概念を追い求め、言葉に落とし込む。「幸せ」だとか「愛」だとか「情熱」だとか。無意識に「相対的に物事を認識する」ことを恐れ、怯えているのではないか。だからこそ、「絶対的」という言葉が作りあげられたのだと思う。

ここまで散々「相対的にしか判断できない」と言ってきたが、おそらく、遺伝子レベルで「絶対的」を追求するようにできている。詳しくはないから正直テキトウなことは言えないが、想像上、人が何かを成し遂げる上で必要だから、そうなっている気がする。

何にしろ、自分の中でなら、極限まで「絶対的」に近い概念を持つことができるはずだ。絶対的な幸せだとか、絶対的な愛。それらの概念を自分の中でできる限り「絶対的」に近づけることで、何か新しい感覚を得られる気がする。きっと、追い求める価値がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?