部派仏教と大乗経典の「愛」を比較する


1.はじめに


1カ月程前だろうか。
パーリ仏典を用いる某上座部の信徒を部屋主とする某チャットルームに、「『理趣経』を知りたい」という参加者が現れたため、私はチャートグラフを用いて解説することとなった。
ところが、部屋主である某上座部の信徒はこの解説を聞いて、「『理趣経』はレベルが低い、カーマ経だ」などと感想を述べていた。
(※なお『理趣経』を解説していたところ、部屋から追い出されたため、私はもういません。)

私はパーリ仏典を用いる上座部の教学のことをしらないが、どうも信徒は大乗経典に批判的なようである。

私は『理趣経』の内容について、「正しい」とか「間違い」といったことは述べられる立場にないのだが、ここではインドの上座部の教学と『理趣経』とを比較してみたい。

2.部派の「愛」

『理趣経』の十七清浄句が性欲を肯定していると勘違いされるのは、「男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である」といった内容を、よく理解しないまま、そのまま読んでいるからだろう。

そこで最初に、インドの上座部仏教である「有部」の愛の深化について考えてみたい。
まず有部の『大毘婆沙論』の「愛」を分析すると、①自己愛(自分が救われたい気持ち)から②親愛へと展開する。

この②親愛には2つのパターンがあり、
まず一つは、煩悩に侵されていない時、「②信」となる。この場合、自分が救われたい気持ちが「慈悲」や「涅槃」に向かうことになる。
もう一つは、「②汚れた愛(貪)」であり、③欲愛、④愛欲、⑤渇愛へと展開するため、自分が救われたい気持ちが「次の肉体(生存)」に向かうことになり、輪廻を前提として性行為を行うこととなる。

これは大乗仏教にも引き継がれ、『大智度論』では、この汚れのない愛を「法愛」とし、汚れた愛を「欲愛」とする。

3.大乗の「愛」

『理趣経』における「愛」

さて、『理趣経』ではどう描かれているのだろうか。

まず、自性清浄心を基体とする自己は、(a)煩悩に汚されていない場合と、(b)煩悩に汚されている場合で、それぞれ次のように愛を深化させ、行動に移している。

(a)慈悲ルート
まず、①妙適(菩薩を目指す)が、②救いたい、③関わりたい、④慈愛したい、⑤自尊心、へと展開する。
そして、②の救いたい気持ちは、⑥人の困難を探すことになり、⑩菩薩の荘厳を整え、⑭実際に救済のために姿を現すことになる。
③の関わりたい気持ちは、⑦人助けで喜びたい気持ちになり、⑪救済することへの満足を求め、⑮説法へと繋がる。
④の慈愛したい気持ちは、⑧助かるまで他人を離さない気持ちになり、⑫菩薩としての輝きを具え、⑯相手に安心を与えることへ繋がる。
⑤の自尊心は、⑨菩薩としての活動を支え、⑬相手を与楽し、⑰ともに覚りを目指し、それを喜ぶこととなる。

(b)渇愛ルート
まず、①大楽(輪廻を目指す)が、②異性が欲しい、③異性に触れたい、④相手を離したくない、⑤慢心したい、へと展開する。
そして、②の異性が欲しいという気持ちから、⑥相手を見たいとなり、⑩そそるような格好をして、⑭実際に異性を得るために姿を現すことになる。
③の異性に触れたいという気持ちは、⑦歓びを得たいとなり、⑩満足を求め、⑮声をかけることへと繋がる。
④の離したくない気持ちは、⑧愛したいとなり、⑪姿を輝かせ、⑯気持ちよくさせることへと繋がる。
⑤の慢心したい気持ちは、⑨楽を得たいとなり、⑫苦痛を失くし、⑰歓びを味わうことへと繋がっている。

これらの行動の根本原理は「自己愛」であり、煩悩で汚されている時には自己保存のために性欲を満たし、煩悩で汚されていない時には、涅槃や慈悲へと展開できることを示している。本質は同じであるから凡夫でも可能であり、これに気づき、実行することにより「煩悩即涅槃」を叶えるのである。

重要な点は、性欲を満たすことを推奨しているわけではないということである。性欲を、意思と努力で転回し、慈悲へと展開するのである。すなわち、どちらも自分が救われたいと本能によるものであり、根本は同じなのだから、性欲ではなく慈悲をしろとしているのである。

『涅槃経』における「愛」

では、他の大乗経典ではどうだろうか。大乗の『涅槃経』は、

愛有二種。一者餓鬼愛。二者法愛。眞解脱者離餓鬼愛。憐愍衆生故有法愛。如是法愛即眞解脱。眞解脱者即是如來。又解脱者離我我所。如是解脱即是如來。如來者即是法也。又解脱者即是滅盡離諸有貪。如是解脱即是如來。如來者即是法也。又解脱者即是救護。能救一切諸怖畏者。如是解脱即是如來。如來者即是法也。

「愛」には二種類ある。一つ目は「餓鬼〔のような〕愛」で、二つ目は「法愛」である。衆生を憐愍するから「法愛」が有り、「法愛」はすなわち「解脱」であり、真の解脱者は「如来」なのである。
また解脱者は、我と所有とを離れており、解脱者は「如来」、「如来」は「法」なのである。また解脱者は、諸々の貪(煩悩)を滅しつくしているのでる。このように解脱者は「如来」であり、「如来」は「法」なのである。
また解脱者は救護〔する者〕なのであり、一切の諸の怖畏する者(一切衆生)をよく救う。このように「解脱」は「如来」であり、「如来」は「法」なのである。

曇無讖訳『大般涅槃経』4巻(大正12巻390頁上)

「愛」の分類として、「餓鬼のような貪る愛」と、「如来の哀れみのような愛」とに分類する。すなわち、他人を憐れむものも愛としているのであり、「法愛」は「解脱」とまでいっている。このことは『大毘婆沙論』でいう、「汚れた愛(貪)」と「汚れのない愛」にも対応している。

このように、仏教は「愛」全てを否定しているわけではない。「貪る愛」を離れ、「哀れみの愛」を持つのである。

これを『理趣経』に照らし合わせれば、性欲を肯定している経典ではないことがわかると思うのだが、どうも日本の上座部仏教の「信徒」には通じないばかりか、性欲を肯定しているように見えるらしい。

はたして、パーリ経典を用いる上座部仏教では、信徒にどのような指導をしているのだろうか。『理趣経』の「レベルが低い」といわせる理由を聞いてみたい。

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